ブラック企業物語2 ーレイド化するサービスー

私が新卒入社した自転車メーカーを退職した経緯については、
別ページ「乗らない馬鹿は唯の莫迦」を参照されたし。

18.11.20追記:参考までに、精神疾患と労災について、
「NHK おはよう日本」が特集を組んでいたので、参考までにリンクを貼っておく。
http://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2018/10/1026.html

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14章 15章 16章 17章 18章 19章 20章 21章 22章 23章 24章 最終章 あとがき


第0章 新たな挑戦)

2014年4月、かつての人脈を利用して、
大学時代のバイト先へ「社員」として出戻り転職した。
採用面接なんて、かつての上司Mと飲んだだけで「顔パス」だった。

しかし、これが人生を踏み外す結果となった。
この選択は過ちだったと心底後悔している。

それでも、どん底を経験できたから、それはそれで良かったのかな・・・?
きっと、これ以上酷いことはそう起こりえない・・・と信じたい。

この会社は、2004年頃に「温野菜」や「牛角」といった、
大手居酒屋をフランチャイズ展開していた会社が、(中略)
個別指導塾事業を急遽始めた事で分社化して誕生した。
*後に飲食事業の方は畳まれたが、2016年に復活(後述)

その為、居酒屋の店長達が、最初に出展した校舎を運営していたのは事実だ。
実際、「飲み屋の店長が塾長の塾に通わせたくないだろ?」という
中傷ビラが出店直後の教室周辺地域に撒かれた。

出鼻を挫かれつつも、実績を積み重ねていき、(中略)
2017年3月時点で新潟~沖縄まで=ほぼ全国規模で
70校舎あまりをフランチャイズ展開するという、
破竹の勢いとノウハウを有した。

2014年以降、塾以外に、
飲食事業の再着手で「ステーキのけん」「串かつ田中」「ミルキッシモ」のフランチャイズ展開、
カンボジア人道支援(これは黎明期からやっていた)、
スポーツ事業の新興で「ステップゴルフ」のフランチャイズ展開、プロダーツスポンサー就任、
埼玉県吉川市で整体院開院、日本のどこかで美容室開業など、
事業内容がどんどんカオスになっていった のだが…。


話を戻すが、私は上記中傷ビラ問題が落ち着いた2006年のGW明けに、
この会社の運営する、中傷された校舎でアルバイト講師として採用された。
詳細は割愛するが、その当時の職場環境は「高い実績の出る組織」だった。

高学歴な学生バイト講師陣が自ずとチームとなり、
給料の出ない業務にも自発的に取り組んだ。
「楽しくて好きでやってるだけだから、給料とか残業とかは度外視、ぶっちゃけ気にしてない」
という認識が学生講師の間で暗黙の了解になっていたので、
今で言う「塾講師ユニオン」「やりがい詐取」という概念は全く出てこなかったし、
当人達にもそうした意識は無かった。
*ユニオンに訴えられたのは、こことは別の系列(某アスリートがCMに出てる奴)だけど

確かに元居酒屋関係者ばかりの当時の上司達だったが、人材育成力は高かった。
褒める所はしっかり褒めてくれたし、怒る所は双方納得ずくで叱ってくれた。
幼い頃の私は、怒られると不貞腐れてモノに当たる人間だったのだが、
彼らに怒られても、注射針を刺された程度の痛みを伴いつつ、
何がいけなかったのかすんなり心へ入ってきたものだ。
所謂「アサーション 」が巧かったのかもしれない。

彼らは、居酒屋から塾に入った門外漢であった事も自覚していたので、
教育業界に関する知識や、教務知識・技能についても、
泊り込みや連日の終電退勤等、膨大な時間外労働 で自己研鑽していた。

成長が見込め、努力が認められ、それが成績や合格実績にも繋がっていき、
クレームを起こしたり、モンペや不良ヤンキー達と関わったりするなど、
多くの失敗・経験をしながらも、
大学~大学院の6年勤務した間で、自分は人として強く成長した(と思う)

当時のように、もっとやり甲斐や自信を積み重ねていきたい・・・と思っていた。
しかし、現実は残酷だった。

寧ろ、自分が「会社」という「社会」を
見くびりすぎていただけだったのかもしれない。


第1章 挫折)

2014年4月。バイト先ではなかったが、
地元の別の校舎に副教室長として配属され、OJTを受ける事になった。
しかし、そこの教室長H(2017年下半期で退職したらしいが)は、
人員不足で既に授業だけで
オーバーワーク状態になっており、私にOJTをする余裕は全く無かった。
私は2ヶ月間、大学時代と同じ「バイト講師」として勤務するだけだった。

大した研修を受けぬまま、2014年6月に教室長研修&試験を受けに
名古屋の某大手英会話塾●●●A本社に出張。

教室長試験は、
・ペーパーテスト(授業料の見積計算とか) ・入会面談ロープレ=実技試験
の2本立てで行われ、両方合格する事で教室長資格が得られる。
ちなみに、1回の受験で参加手数料5000円+研修受講料10万円+宿泊交通費5万円が経費として会社から支給される。

同年2月以降入社した社員達は、一発合格で教室長に就任していた。
つまり、私も一発合格するだろうというプレッシャーが自ずとかかっていた。

しかし、「丸腰」である。まともに面談練習なんてしていない。
確かに、「面接練習させてください」と懇願しなかった、自分の主体性欠如も一因ではあった。

だけど、玉拾いだけしていた新入テニス部員に「錦織 圭や大坂なおみに勝て」と言うようなものである。
楽器の咥え方さえ儘ならぬ新入吹奏楽部員に「コンクールで金賞取れ」と言うようなものである。

2014年6月5日。私は始めて精神障害を発症する。
案の定、教室長試験は私だけ不合格だった。
勿論、社内では無言ながらも「いい流れを断ち切った戦犯」扱いされた。

不合格の連絡を聞き、
私はあまりのショックで一晩自宅周辺を徘徊していたらしい。
しかし、自分にはその記憶は無い。

何よりも「気にしなくていいよ」等、
慰める奴が誰もいなかった事 が一番辛かった。


  第2章 絶望と混沌)

挫折を味わって凹んでいた14年6月末、かつての上司Mから人事異動が出る。
異動先の校舎を聞いて
「ちょっと待ってください!幾らなんでも・・・」と異論を唱えようと思ったが、
人事異動は業務命令=拒めないのが社会のルール。

異動先の校舎は、Jリーグで有名な埼玉県某市だったのだ。

別記の通り、1社目の勤務地は埼玉だったので、
私は2014年4月まで、煎餅で有名な草加市に在住していた。
この会社に転職する為に、
2014年のGWを使って、故郷の江東区へ引っ越した矢先の異動だった。

「入社時点で5月に引っ越すって言ったのに・・・」と思った。
「引越代は全額会社負担にするからいいっしょ」とも彼から言われたが、そういう問題じゃない。

しかも異動先が旧家の直ぐ近く=今の家から電車で片道2時間というのが更に腹立たしかった。
この時点で「何?この会社?社員を捨て駒としか思ってないの?
寧ろ、教室長試験に落ちた俺に対する左遷人事でしょ?」とも感じた。

しかし、その理由は止むを得ないものだった。

異動先の前任教室長Kが鬱病になってしまい、突如休職してしまったのだ。
(この前任も16年12月で辞め、今はト●イ個別に移ったらしい)
補足:この会社に産業医は居なかった。


当時は「テメェ・・・」と思ったが、今、同じ鬱病を発症して、
「いや、前任Kの選択は多大な犠牲を払ったのも確かだが、
彼の人生に於いて英断だった」と思うようになった。

2014年6月23日。「健康の事だから仕方が無いよね」と思いながら
埼玉の校舎に着任した。
しかし、「就任おめでとう」なんて祝われる余裕は無かった。

ここからが本当の絶望だった。
着任して慣れない椅子に腰掛けた矢先、
「次の北辰テストの案内はまだなんですか!お金払ってるのに、
 前回も案内が遅くて受験できなかったって言ってるじゃないですか!!
あんた達はいつになったら改善するんですか!!!」という電話。
つまり、重大クレームだった。

電話先で、保護者さんはガン切れしていた。
とにかく、落ち着くまで話を聞いて、
ワケも分からないままにただただ謝った。
(そこまでキレるならやめればいいのにとも思ったが)

私は新宿生まれの深川育ちである。
V・W模擬しか知らない人間である。
このクレーム連絡を以って「北辰テスト」なる
模試の存在を初めて知った状態だった。

*補足:北辰テストとは埼玉県内限定のローカル模試の事。
受験料は1回5000円弱するのに、
結果はW模擬より頼りにならないし、
運営も北辰図書の「殿様商売」である。

埼玉の高校事情なんかも全く分からなかった。
だって、私は東京の旧2学区出身で、家は旧5学区だったから。

しかし、時は6月末である。そんな事は言っていられなかった。
塾業界では「スポット売上」と言われる「夏期講習」が半月後に迫っていた。

上場企業や100名規模の大きな塾なら、数百万円の売上になり、
年間利益の大きな割合を占める、重要な戦いだ。
(T●MASや●光等、上場企業の面目の為に法外に高い季節講習を売る塾もある(別記))

それだけの売上を出すには、
保護者の財布を緩めるだけの営業力が必須。
その営業力の土台になるのが受験情報力と
徹底的な事前準備・シミュレーション(=ロープレ)である。

だが、そんな余裕は全く以って無かった。

前任が倒れて野放しとなった校舎は、まさしく「ゴミ屋敷」「汚部屋」と化しており、
どこに何があるかも不明、
2tトラック2~3台相当に及ぶゴミが建物中に散在していた状況だった。
まずはその廃棄物の処理だけでもかなりの時間を要した。

更に、この校舎を2フロアから1フロアへ経営規模縮小する話も同時発生し、
譲渡するフロアの立ち退き作業も重なった。
(建物の大家から「他所からオファーが来ているので、使ってないならさっさと空けろ」と立ち退き要求された為)

更に更に、急な人事異動に伴う引継の混乱とクレーム電話も相次いだ。
前任Kは前触れなく突然休職してしまったので、
まともな引継情報もあるはずがなく、生徒やバイト講師の証言やヒアリングから
諸々の記録や約束事を復元しなければならなかった。

一番辛かったのは、当時の上司Nが電話に出ないことだった。
何度着信を入れても折り返しすら無かった。
自分の手に追えないトラブルが起きた時、電話に出てくれず、
やむを得ず私が出来る限りの対応をするものの、
後から「たられば」を言われるのも理不尽だった。
(今、この上司Nは故郷の新潟で伸び伸びと新校舎を運営し、
娘も生まれて幸せ最盛期だそうだ。いい御身分だなぁと思う)


終電を何度も逃し、校舎で寝泊りする事もよくあった。
終電に乗れたとしても、武蔵野線クオリティは日常茶飯事。
出勤時でも片道2時間は要するので、
JRが遅れる帰りは3時間以上かかる事が大半だった。
家に帰れたのは連日3時前後 だった。
早出で残業処理しないと仕事が片付かないので、まともに睡眠時間も取れなかった

余りにもカオスな校舎状況、誰も頼れない組織体制
毎日終電で帰る 現状。相次ぐクレームやトラブル。
夏期講習までの残り時間。身も心もズタズタになっていった。

そんな中でも、ひたすら全世帯に電話をかけて
怒られて謝りながら着任の挨拶と夏期面談のアポイントを取っていった。

そのさなか、更に追い討ちをかけたのは、
前任Kの重大経理ミスだった。
14年というのは、消費税が8%に上がった年だったので、
授業料も増税で高くなっていた。

しかし、前任が誤って税率5%のままで
4~6月授業料を保護者に請求していた為、
多額の未収金=簿記で言う「売掛金」が発生していた。
(後から分かったのだが、この重大経理ミスが引き金で、前任Kは鬱病になってしまったそうだ)

私個人としては「前任K個人の過失なんだから、前任Kの給料で補填するなり、
会社資金で補填するのが筋だろ」と思ったのだが、
当時の上司Nは「債権がこっちにある事に変わり無いので、
毅然とした態度で「払ってください」と
保護者に要求してください」と強要してきた。

全く以って納得いかなかったが、業務命令である以上逆らえない。
私は面談の場で、腹話術人形の如く
「実は前任のKが消費税5%の状態で~様の
授業料お引落をかけてしまっておりまして、
差額~~円の未払いが発生しております。
 大変お手数ですが、夏期講習と同時に
お支払いいただけないでしょうか?」と、
該当する世帯の保護者に伝えた。

案の定大炎上。ホレ言わんこっちゃない。
「事情は分かりましたが納得できません。家内はまず納得しないと思いますので、
一連の経緯を、上席の人間を連名にして、文書で説明してください。」
それまで比較的穏便に応対していたその保護者さん(超強面のお父さん)は
冷静に怒っていた。指を落とされるのではないかと覚悟したほどだった。

他の御家庭の面談でも、過去のトラブルに
起因する新たなクレームなどで散々怒鳴られ続けた。
怒りが収まらず、別日に面談ラウンド2を設定し、また怒鳴られる事もあった。

一番辛かったのは、先述した、初日にクレーム電話を
入れてきたお母さんだった。
前々任Kの起こしたトラブルまで蒸し返して、
状況も経緯も分からない私を30分以上、
気の行くまで罵り続けた。
私はとにかく謝って耐えるしかなかった。

(後になって、このお母さんがそれだけ怒っていた理由が明らかになった。
前々任Kは、このご家庭(当時は長男を入会させていた)の払った
夏期講習代金約20万円をあろう事か「着服」して、夏期講習を一切実施していなかったのだ。
結局この親御さんが本部へクレームした事で会社にバレて懲戒解雇になったのだそうだ。)


ストレスの余り、家に帰っては吐いたり、泣き寝入りする事が続いた。
同時期に、いきなり錯乱状態になる、
ある種のパニック障害も併発していた。

2014年9月。
結局、夏期講習の売上ノルマ(=業界用語で「コミット」)は
僅かに届かなかった。
*この会社はノルマ未達成でも特に罰則は定められていない。
(社会主義だと揶揄する社員も居た)

しかし、9月の社内会議で、売上計上の摘要に変更が生じ、
(「これもカウントしてOK」と追加されたって事)
再計算した所、ノルマは達成していた事が判明。

でも、誰からも祝福・労いの言葉は誰一人からも無かった。
一方、同じ理由でノルマ達成が判明した、ある幹部社員Nには
「Nマネージャー、おめでとうございます!!流石です!!」という
労いのゴマ擦りが社内中から飛び交った。

「何故俺だけ評価されないんだ・・・。こんなに酷い目に遭ってでもここまでやったのに不公平だ・・・。」
悔し涙も枯れていた。

夏期講習が終わり、
校舎の見た目も経営もかなりクリーンになり、
初対面で私を怒鳴り散らした保護者さん達からも
「良くなってますよね」と信頼構築が出来てきた。

2014年9月中旬。かつての上司Mからまたも人事異動の声がかかった。

この会社で1年に複数回の人事異動がかかるのは極めて異例だ。
今度は当初の希望通りの、地元:江東区の校舎だった。
(限りなく江戸川区と墨田区に近い、北部の貧困地域なんだけどね)

理由はそこの教室長Tの急な退職だった。
そこで、地元=地域に精通しているという事から、私に白羽の矢が立ったらしい。
それは、本当の意味での「白羽の矢」だった。


  第3章 自殺未遂)

私に「やっと地元に戻れる」という喜びは無かった。
埼玉の校舎に与える影響を懸念する事しかできなかった。

「じゃあ、今の校舎はどうするんですか?
私は着任3ヶ月で異動って、
保護者さんや生徒に申し訳が付きませんし、
私だってやっとスタートラインに立てたという
意識で居た矢先ですし・・・。そもそも、後任決まってるんですか?」
と反論したが、
「後任は何とかする。とにかく、この校舎を頼んだ。」
と上司Mから言われた。

間髪入れずに
「希望通りの地元勤務にしてやったんだ。
だから実績出せなかったら容赦なく動かすから」と、
脅しとも取れる応援メッセージを言われた。
(彼は、「長い付き合いに基づくブラックジョーク」のつもりで言ったようだが、後にパワハラとして認定された)

「・・・分かりました」
私は懸念だらけの中、人事異動を受け入れる他無かった。
それは、折角信頼を築けてきた、
埼玉の校舎の保護者さん達を再び敵に回し、
私は「裏切り者」のレッテルを背負う事を覚悟した瞬間だった。

時は流れ、2014年10~11月。
私は業務引継の為に、江東区の校舎と埼玉の校舎を行き来していた。

埼玉の校舎から、ひっきりなしに私の携帯電話へ着信が入った。
 結局、後任人事は決まらず、私は遠く離れた
2校舎(=合計70名の生徒)を一人で兼任せざるを得なかったのだ。

それ故、私が居ない間の埼玉の校舎は、
バイト講師か、近くの校舎の教室長(上司N等)がピンチヒッターとして
代わりに入っており、不測の事態が起きれば、
直ぐ私に確認・報告をしなければならない状況だったのだ。

案の定、トラブルが頻発し、
江東区の校舎で引継作業をしていても、
とにかく電話が鳴りまくって仕事にならなかった。

元々、埼玉の校舎でかなりメンタルをやられていた私は、
愛想笑いをする事もできなくなっていた。
(この時点でもう鬱を発症していたのだろう)
そのせいで、江東区の校舎に通っていた
当時の生徒達(ミレニアムベビー世代)から、
「新しい教室長は陰険で印象悪いんだけど」という悪評が立った。

生徒間のLINEグループは私の陰口で盛り上がっていた。
それはまさしく「学校裏サイト」だった。

そのため、江東区の校舎の生徒達には総スカンを食らい、
ある生徒から、教室長認定証を投げつけられて
「とっとと出て行け」と言われたこともあった。

そういう悪評は家でも愚痴の種になっており、
未だ会った事のない保護者からも悪印象を持たれた。

「授業を見てもらったそうですが、
あなたの授業はつまらないし分からないから
受けたくないと娘が申してますので
講師の方に変えてください。無理なら辞めます。」
という、心無いクレームも電話で何度か受けた。

私が埼玉の校舎でトラブル対処をしていた11月中旬のこと。
夜、泣きそうな思いで終電間際の上野駅から銀座線に乗った時だった。
江東区の校舎を辞める、前任Tから携帯電話に着信が入った。

「生徒から3件同時にクレームが入りました。
FTさんの授業は受けたくないから
日程変えてでもいいので講師に変更してくれ、
口も利きたくないと言われました。
どうするつもりですか?」という衝撃的な内容だった。

(いや、どーするも何も、嫌なら変えるしかないし・・・)と
涙をこらえながら必至に考えつつ黙っていると、
「FTさんの振る舞いに問題があるから生徒に嫌われるんですよ。
何で明るく振舞おうとしないんですか?」という
同情の欠片もない追い討ちが返ってきた。
今考え直しても、この前任Tは本当に人格破綻者だなぁと心底恨んでいる。
(ちなみに、この前任Tは会社を辞め、本部=●●●Aに転職し、
現在は足立区某所で90名校舎を経営し、そのノウハウを「本部研修」で
かつての仲間達へプレゼンしている。)

注意:ここから自殺関係の文章になります。
フラッシュバック等、不都合のある方は
ブラウザバックかPage Downキー連打で
読み飛ばしてください。















同年6月以降、涙も出ない位に精神をズタズタにされ、
この人事異動の失敗で、更なる追い討ちを受けた私の心は、
もう限界だった。

「・・・今、上野広小路のホームに居るんですけど、
あと20秒くらいで終電来ます」
「日本橋着いたらまた電話してください。」

「いや、電車に飛び込みます。お世話になりました。」
「ちょっ?ま・・・」ブツッ。

近づく電車。自分と溝鼠しかいないホーム。
白線を越えようと足を進める。

(このまま前に跳べば死んじゃうんだよな。
短い人生だったな。
もっと幸せに幕引きしたかったな。
こんな「自殺」なんて手段ではなく・・・)

しかし、足はそれ以上進まなかった。
・・・死ねなかった。
言い知れぬ悔しさを紛らわすべく、
私を血祭りに上げる予定だった、
終電間際の銀座線の中で静かに奥歯を食いしばった。

人身事故で死んだら色んな人に色んな迷惑がかかる。生徒とか家族とか、無関係な一般人とか。
屍も酷く損壊するし、電車も停めてしまう。
死ぬんだったら人に迷惑をかけない手段、
コロっと逝ける手段の方がいいのでは?という、
臆病で無駄に冷静な心理障壁が
最後のストッパーになっていた。
「子は鎹」とはまさにこういう事か(違う)。

その日はもう精神的にヤバいと判断し、帰宅するや否や直ぐに寝た。

(ここまで)












その後も、冬期面談兼着任の挨拶の面談の場では
「受験直前に人事異動をするってのは、
お宅の会社か本部は何を考えてるんですか?」
「期待して入塾させたのに、何で成績上がらないんですか?」
「前の教室長(前任T)は大学受験まで見ますって約束されたはずなのに、
いきなり退職されるのは話が違いませんか。
塾を信用できなくなったので辞めます。」
「教室長変わるなら辞めます」
といった、保護者さんからの困惑・クレームの声が相次いだ。
前任Tは「俺どうせ辞めるから対応はFTさんお願いしますわ」と
まともに取り合ってくれなかった。

(いや、お前がやらかした事に起因するクレームなのに・・・)
と怒る心の余裕も既に消え失せていた。

彼の退職当日の朝に長いクレームメールが届いたが、
「これから北千住で飲み会(送別会)なんで。俺はもう関係ないから知らない」と、
無断早退してしまった。
(この半月後に、このクレームメールの送信元の親御さんとも面会した。
最初15分は物凄い剣幕で怒られたものの、進路相談に乗った・私が苦し紛れに出したアドバイスが
クリーンヒットして状況がひっくり返り、最終的に前任Tを凌駕する信頼を寄せてもらう事に(苦笑))


同時に追い討ちをかけたのは、配慮・同情のない会社の上司・幹部達だった。
I社長は忘年会で「いや~、(埼玉の校舎の)後任、ど~しようかね~!」と
私に面と向かって言ってきた。

(酒の席とはいえ・・・。私がどれだけ酷い目に遭わされているのか御存知ないようだ。
まあ、現場経験も無いからなぁ…。
・・・無責任、無配慮、徳もない、碌でもない社長だなぁ。この人に着いていく意義はない…)

他にも、社内会議の場で私が全体に発言する機会があったので、
「いい加減後任決めてください!」と渾身の訴えを上げたのに、
ネタとして嘲笑された上、
移動した、江東区の校舎を管轄していた上司N(私が大学生当時のバイト先の直属上司でもあった)から
「不適切な発言だ、TPOを弁えろ」と、その日の晩に譴責された。

(この会社には理解者が居ない・・・。
私が抱えてきた苦しみや悲しみを誰も理解してくれない。
何で俺だけこんな辛い目に遭ってて、
皆楽しそうに仕事してんのか分かんない。
もう、辞めよう・・・。)
(社長・上司のこれらの発言は、後にパワハラとして認定された)

自分が悲劇の主人公にでもなったかのような感覚だった。
(この会社は、これを社内用語で「欠乏マインド」って呼んでいたが)
入社して8ヶ月くらいで退職を決意してしまっていた。

寧ろ、2014年末~2015年の春の間は、
死ぬ事(自殺願望=医学上では希死念慮 と言うそうだ)しか頭になかった。
自宅で鋭利なものを見れば「リスカしたら死ねる?」
横断歩道で信号待ちしていれば
「今飛び出せばぐちゃぐちゃになって絶対一発で死ねる」
混ぜるな危険を見たら「サンポール+ドメストあたりかな?」という感じだった。
生きている事自体が辛かった。
(主治医曰く、この当時の私は非常に危険で、本来なら入院必須の状態だったらしい。

しかし、1社目が2年丁度で退職。
この会社を8ヶ月で辞めてしまえば、書いた事も無い職務経歴書が汚れてしまう。
(コネ入社だったが、履歴書・職務経歴書すら不要だった(出したとしても杜撰に管理される))

働き方云々が議論されるようになった2018年現在では禁句になってきているが、
「どんなに嫌でも3年は勤めろ」とかつて言われていたように、
「きっと今だけ、じきに情勢は良くなる」と信じて、
「ならば3年は働いて、2016年度(=17年3月)までは耐えよう」と思っていた。

しかし、意に反して情勢はどんどん悪化していく。
私が着任するや否や、江東区の校舎では、
生徒の半数が3ヶ月で辞めてしまった。
(勿論、受験終了に伴う卒業退会も含めてだけど)
毎日退会届を書いているようなものだった。

着任前は黒字で運営していた校舎だったが、
私が着任して、生徒が短期間で20人も激減したので、
あっという間に赤字運営に転落

止められない退会。
それに伴って「あの塾、塾長が頻繁に変わるんだって。成績も上がらないらしいし。」等、
地域内にも悪評が広がってしまった。

(マネージャー陣は「お前が誇張してるだけでしょ」と
一向に信じてくれないが、出勤時の信号待ちで、
ママ友同士の会話を小耳に挟んだことがあり、
心底凹んだ事があったのだ。)


  第4章 無気力)

組織改変で、上司は同じ歳(というか1ヶ月だけ年上)の
A(以後上司A、Aマネージャーと表記)になった。

悪評が蔓延した故か、2015年の春になっても
問い合わせや体験授業申込は一向に来なかった。
春期講習もノルマにボロ負けだった。

それでも何とかしようと、
連日ほぼ徹夜でポスティングをしたり、ポスターを作ったりして、販促活動を続けていた。
勿論、授業そのものも成績が上がるような内容に改編し、現実に抗っていた。

しかし、現実は甘くない。

生徒の成績は少しずつ上向いてきたが、
夏になっても問い合わせは雀の涙だった。
勿論、夏期講習のノルマもボロ負けだった。

「こんなに頑張ってるのに・・・結果が出ない」
「この状態でこのノルマは行ける気がしない」
「でも達成しなくても罰則はない」

PDCAを回そうにも、「どうせ俺なんて・・・」「どうせ・・・」と
ネガティブ思考で決め付けるようになり
「どうせ、やった所で意味がない、じゃやらない」
「つーか面倒くさい」など、
メンタルはどんどん腐れていった。

2015年度に刷新された新経営陣の方針にも賛同できず、
それでこそ希薄だった、会社への従属意識
(ビジネス用語でエンゲージメントって言う)も更に薄れていった。

2015年の9月頃からは、食べる事も面倒 に感じ、
1日1食で済ませるようになった。
そのうち何に対してもやる気が起きなくなり
長らく趣味としてやってきた、トミカ収集を止めてしまった
15歳からずっとやり続けてきた音ゲーも
「ルーチンワーク」と感じてしまい、
ただの「コナミへの貢ぎ」と化していた。

今考えれば、これは全て鬱病の症状 だった。
補足:こうした症状は「セルフネグレクト」と呼ぶそうで、
もっと酷くなれば食事はおろか、トイレ等の日常生活も困難になり、
布団の中で餓死という最悪な結末に至る事もある
そうだ。


もっと早く病院に行く決断をしていれば、もう少し変わっていたのかもしれない。
自分でも「どうしちゃったんだろう?」と疑問には感じていたが、
ググる気すらも起きなかった

メンタルはどんどん腐敗し、仕事にもやる気が起きなくなっていた
最終的に、2015年は600万円の赤字 で終える事になった。
・・・普通の会社なら、コレだけ赤字を垂れ流した営業は即解雇である。

しかし、この会社はどんなに赤字を垂れ流しても罰則も降格もない。
「どっかの黒字校舎がどーにかするんしょ」という意識に落ちぶれ、
目標を達成しよう、この組織に貢献しようという気持ちは、
最早どこにもなくなっていた。

罪も罰もない。
報いも褒賞もない。
理解者も居ない。
組織方針にも納得できない。
組織を好きになれない。
何に対しても興味関心が全く沸かない。

「もうどうにでもな~れ」と自暴自棄 になっていた。
気づけば2016年の春になっていた。



  第5章:魔女裁判 ~千手の張り手~)

こうして始まった2016年度。私にとっての最後の1年だった。
本格的に鬱に侵されてきた私は、徐々に思考力も衰弱 し、
何事にも不安や恐れを感じる ようになっていた。

食事を抜き続けた事で、体重は52kgと危険水準まで減り
良く言えば鍛えなくても腹筋が割れるようになった(笑)。
健康診断で「これ以上痩せたら、アンタ死ぬわよ」と
細木数子的コメントを医者から言われた。

やる気は相変わらずなく、 自分の事だけでなく、
受け持っている子ども達に対する興味感心すらも皆無になってしまった


その為、夏期講習などの面談の際に、
生徒に対する根回しやヒアリング(業界用語で「生徒面談」という)すらも
まともに出来なくなっていた。やろうとする気すら起きなかった。

その結果、夏期講習の面談に関して、
・いつまでに申込書を回収するのか ・何故そのカリキュラムにしたのか
といった、面談や提案の根幹部分や納期設定に多くの不足を抱えてしまった。

2016年7月14日。
部署の会議は、こういう状況でノルマ達成に遠く及ばない私を
糾弾する事で大炎上した。

それは、まさしく「魔女裁判」だった。
(どっかの大統領が連呼しているように、男相手の魔女裁判も実在していたそうだ)

私VS部署の他の同僚(年下)2名+上司A+副マネージャーI、つまり1対4という構図
私は・誰に・いつ・どのように・いつまでにといった、
面談関係の履歴を根掘り葉掘り詰問された。

私の回答はプロジェクターに写るWordに一言一句記録されて目の前に表示された。
少しでも怪しいところがあれば
「お前そこ矛盾してるけど嘘言ってんの?」と
揚げ足を取るかの如く、きついツッコミが上司2名から入った。
反論・反駁なんて出来るわけなかった。
全て自分が悪いと過剰な自責で自分を追い込んでしまっていた からだ。
ある意味「どきどき魔女裁判」だった(苦笑)。

鬱で精神的に衰弱していた私は、
こうして3時間強に渡る、一方的な言葉の拷問 を受けた。
黙っていれば「何で黙ってるんですか?」と怒られるので、
MGSのように、ワンプッシュで屈服する事すら許されなかった。

「確かに私にも多数の瑕疵があったことは認めるが、
こんなの裁判というかパワハラじゃないか。」
一瞬の怒りも、湿り切った導火線には何も成さなかった。
(後に、この会議はパワハラと認定された)

注意:ここから再び自殺に関する表記があります。











裁判という名の会議が終わった後、
部署からも見放され、居場所を完全に失った私は、
北千住駅の1Fホーム=東武伊勢崎線特急列車用ホームで再び自殺を試みた。
特急電車なら速いので、確実に死ねると思った。

・・・しかし、また死ねなかった。どこまでも臆病だった。
でも、多くの人に迷惑かけながら死んでいくより、
自分が呼吸すらも辛いと思いながら生き長らえた方がマシだった。

今死んだら、受け持ってる子どもはどうするの?というのが
最後のストッパーになっていた。
まさに「子は鎹」である(2回目)。

死にたいけど死ねない。
頭には自殺の2文字がまた巡るようになっていた。
涙すら出ないまま、東武伊勢崎線(東京メトロ半蔵門線)の社内で俯いた。

その日の終業間際に、近しい社員数名にも「死にたい」とかかってきた電話で連呼したが、
冗談扱いされ、誰一人マトモに取り合おうとはしなかった。
(ここまで)













それから数日後の2016年7月19日。
私は上司Aと電話で少し言い合いになった。
「FTさんは何でこの会社で仕事しようと思ったんすか」という議論だった。
時間の無駄だし、そもそも正常思考が出来ぬ鬱病患者と
電話で口論した所で埒なんて明かない。

「じゃあ、今晩FTさんこっち来て話し合いましょう」
と言われたので、その日の業務終了後、
私は職場近くの、上司Aの校舎へ直接出向いた。

「言うなら今だな」と決心した私は、開口一番
「今の私には退く事しか頭にありません」と爆弾発言。
8秒ほど上司Aは冷静に黙り、
「いつ頃の退職を考えてますか?」と応対。
「本心を言えば、今すぐ退職したいです。
しかし、ここで辞めてしまうと、今受け持っている
受験生達に申し訳がつきませんし、
前任Tと同じ事になりますから、
彼らの受験が終わる頃(17年2~3月)を考えています。
この業界、人を見つけるのが難しいのは分かっているので、
早めに言った方が会社にも負担が少ないでしょうし…。」

少々イヤミは言われたが、退職の申し出はあっさり受理された。
半週間後、最高幹部T・S両名と面会し、私の退職は公式に受諾された。
補足:2016年頃の組織改変で、会社の最高幹部はかつての上司Mから、TとSの2名体制に変わった。
上司Mは塾事業そのものから離され、当時興したばかりだった
「放課後デイサービス事業」(これも江東区内)の責任者へと異動した。

本来なら「退職届」を一筆(Wordだけど)認め、
文書として保管するのが世間の常識なのだが、
最早逃げる事しか頭になかった 私は、
そんな事は脳裏に過りすらしなかった。
この不手際が、後の第12章で波乱を起こす事になる…。



  第6章:鬱発覚)

退職が受理された後、夏期講習が始まったが、
結局今回もノルマ手前で惜敗した。
ノルマといえど、小学生に3段の跳び箱を跳べと
言っているような程度だったのにも拘らず。

夏期講習が終わり、シフトも平常運行に戻った2016年9月。
時間と心に少しだけ余裕の出来た私は、
今の自分は病気ではないか?と考え、
無気力症候群など、思い当たる用語をネット検索していた。

思い当たる症状が多く、たまたま家の隣駅地域に心療内科があった事、
珍しく月末に3連休を無事に取れた事から、心療内科の受診を決意した。
補足:塾業界で連休が取れるなんて、身内の訃報でもない限り極めて稀

これまで、私は歯科・耳鼻科・内科・整形外科程度しか
お世話になった事がなかった。
そもそも、健康診断以外で病院に行く事自体が3年ぶりだった。
草加煎餅で歯が欠けた時以来である(爆)。

2016年9月28日。
精神科・心療内科は初めてだった。

「23番の方」
プライバシーを考慮して、名前ではなく番号札で呼ばれた。
*結局、調剤薬局でフルネームで呼ばれるのでぶっちゃけ意味がない。

問診表に簡単なアンケートが記載されており、
それらを気楽に回答し、医者と面談。
症状や今の自分の状況などを簡潔に説明した所、
「重度に近い中等度鬱病ですね」と診断された。
意欲を司る、セロトニンが精神的な影響でおかしくなっているとの事。

補足:鬱病の診断は、世界共通のチェックシートがあり、
当てはまる個数や項目でどの位酷い鬱病なのか大まかに判定し、
実際に患者から話を聞く事で重症度を決定するという流れのようだ。

「早く治すなら休職を推奨します。ただ、教育業界はそうも休めませんもんね…。」と
主治医も困惑してしまった。
「…退職まで、仕事しながら治していくしかないですね」と、投薬治療が始まった。

最初に処方されたのは、
「セルトラリン」という、タブレット菓子のような薬だった。
しかし、私とは相性が悪かったようで、体が拒否反応を起こしてしまった。
酷く眠たくなり、目も回って立てなくなり、常に吐き気を覚えるような感じだった。

補足:副作用の中でも特に支障の大きいものを「有害作用」という
また、抗鬱剤は副作用として強い眠気・胃もたれ&吐き気・めまいを催すものが多い
(逆に不眠になるものも少数ながらある)


2016年10月。医者に相談した所、
「サインバルタ」という、鬱病治療としてはメジャーなカプセル薬に変える事になった。

ちなみに、これらの薬は夕食後に飲むのだが、
「準夜勤業なので、夕食といっても夜半過ぎ~明け方になるんですけど・・・」と相談した結果、
「…と、とにかく食事後で構いませんので飲んでください(汗)」と、薬剤師も困惑(笑)。おねーさんあーりがとー

こうして、サインバルタ60mgとスルピリド2錠による治療が始まった。
補足:抗鬱剤は胃腸を荒らす副作用もあるので、胃腸薬も処方される事が多い。
無気力は変わらずだったが、めまい等の副作用はかなり抑えられた。

補足:現状の抗鬱剤は、飲んだら咳が止まったというような、「効果が体感できるもの」ではない
しかし、飲んでから効果が出るまでに半月程度の時間差がある
何ヶ月も長期間飲まないとダメ
症状の進行を食い止める等、何も効果がないわけではないので、自己判断で勝手に止めない様に


しかし、まだ追い討ちが待っていた・・・。


 【2017年3月12日加筆】
第7章:屈辱)

2016年10月後半。
あまりにも私の体験授業・入塾説明が下手だと言う事で、
(これを業界用語で「クロージング率」という)
「FTさんは今後入説・体験はしないでください。代わりに俺達がやるんで。」
と上司Aからついに「入説禁止令」を言い渡された。

…涙が出るほど悔しかった。
でも、営業の世界で弱肉強食は至極当然。
大きなショックを受け、
「自分は無能だ・何をやってももう無駄だ」と
自分で自分を追い込むようになり
最早業務怠慢すらもするようになってしまった。
補足:酷くなると出社すらできなくなる人も多い。

そして、10月末。
鬱は悪化する一方だったが、冬期講習は待ってくれない。
相変わらず生徒に配する興味関心を持てない状態が続いた私は、
別部署の重役Oから「オメーみたいな人間は教室長やんな」と
個室で20分恫喝 された。

れっきとしたパワハラ(少々不本意ながら認定されてしまった)なのだが、
言われている事は正論である。
相手は130kgの巨漢、元明●の重役だ。
しかし、何を言われても
「うるっせーな、この意識高い系デブ。
てか何で裸足なんだよワロスwくっせーんだよw」位で
がむしゃらな恫喝なんてまともに耳に入らなかった。
(これも鬱病の症状なのだとか)

この話は社内に直ぐに知れ渡り、
11月中旬に「冬期面談はFTさんやんなくていいです。
代わりに副マネージャーIにやらせるんで。」
と上司Aから「面談禁止令」まで言い渡されてしまった。

新規案件も季節講習の面談も
「アンタッチャブル」にされた
塾教室長。
こうなったら、何を以って「成果」を出すのか。
「生徒の成績向上」しか選択肢は残されていなかった。
しかし、そんなのアルバイトでも出来る話だ。
補足:その人の能力とはかけ離れた、低すぎる程度の業務を強いるパワハラを「過小な要求」と呼ぶ
有名な例では、ブラック企業大賞17に輝いた、アリさんマークの引越社の「シュレッダー係」とか。


挙句の果てには
「FTさんは授業だけやってればいいです。授業が好きで面談が苦手なら、
俺達が面談で生徒増やして、FTさんは得意な授業で成績上げてくれれば、
Win-Winじゃないっすか~」と直属の上司達から言われた。

「何がWin-Winだよ。何が7つの習慣だよ。糞食らえだ。」
屈辱で心折れた私に対する、酷い追い討ちだった。
(これら面談禁止令や上司の発言は、後に全てパワハラとして認定)


  第8章:クラッシャー上司)

11月末、私が冬期講習の面談をしない事で屈服し、
副マネージャーIが代わりに私の校舎の冬期面談をする事になった。
私は副マネージャーIが契約させた冬期講習をただ消化するだけの存在扱いだった。
最早、本来の意味での「ロボット」扱いである。
キュアアムールみたいな「グルメ」になりたい…

この副マネージャーIがとんだ曲者だった。
典型的な「クラッシャー上司 」だった。(詳細は検索)
背の高い女性で年齢は私よりも1個年下。社歴は私とほぼ同じ。

そんなのはどうでもいいとしても、
私だけには挨拶もまともにしない し、
部署の業務LINEで私が仕方なくコメントしたことに対しても、
揚げ足を取るような返信 を返してきた。
(関係ない事で「私も善処します」と書いたら、
「面談情報とかお願いしますね」とか言われ、
あたかも私が何もしていないかのような
言い草の返信が来る
事はザラだった。)


少しでも私に瑕疵があれば
「何でやってないんですか?いつやるんですか?」と
徹底的に言葉の拷問を叩きつけてくるのだ。
その経緯は全て直属の上司Aに伝わっていた。

実は、この上司Aと副マネージャーIは、
2015年の部署再編前・昇進前から同部署だった事もあり、やたら仲が良かった。
(社内で交際説が流れていた位だったが、副マネージャーIは中学時代の同窓生と
同棲しており実質「事実婚」状態である)

要はこいつらは「グル」だったのだ。

その為、少しでも私に瑕疵があれば二重に怒られるわけだ。
私の反論や事情には全く聞く耳持たず、
全て「そんなの言い訳っすよ、不健全ですよ」として片付けられた。
補足:この会社は、会社に不都合な考えを「不健全なマインド」という
独自タームで処理する、極めて異様な社風 があった。


そして12月。私は目の前で副マネージャーIの面談を見させられることになった。
「カノッサの屈辱」ほどではないが、これがどれだけの屈辱だったか。
傍観者には絶対分からない。同じ立場にならないと到底理解できぬだろう。

中には「アイツ話通じないんだよねー」と
私を「アイツ」呼ばわりし、タメ口で陰口に花を咲かせる、まさにDQN親も居た。
…当の本人が数m先に居るとも知らず。

これがどれだけ辛かったか。
その後、淡々と副マネージャーIから事の顛末を言われ、
「あなたのやり方が悪いからこうなるんですよ」と追い討ちを受けた。

私には「はいはいわろすわろす、
てゆーか化粧臭いから寄ってくんな」と流すしかなかった。
いちいち気にしていたらおかしくなってしまうから。

周りは敵だらけだが「子は鎹」。とにかくずっと耐え続けた。
2016年の年末から17年の年明けにかけては、
14時間休憩なし、労基法ガン無視 の冬期講習の中、
早く1日が終わらないかとずっと祈るばかりだった。

というよりも、抗鬱剤を最大量使っていた事で、
眠気やめまいといった副作用も強く、授業外の時間は常に横にならないと
仕事が出来ないような状態だった。

しっかり治す為にも量を減らす事は自ら拒んだ。


  第9章:不本意に濁りゆく跡)

2017年も2月になった。
しかし、社内会議で衝撃の事実がリリースされた事を人づてに聞いた。
(「退職の近い社員は社内会議に参加してはならない」という社則があった為)

この時期、学校の先生と同様に毎年人事異動が出る。
(学校の先生の異動は新聞に載るけどね)
色々な校舎が人事異動や昇進/降格になったそうだが、
うちの校舎だけ残念ながら後任が決まらなかったそうだ。

「何の為に俺が7月に退職を切り出したのか
全然分かってないなこの上層部は・・・。」と私は再び怒りを覚えた。

「3月の頭までには春期面談
(業界用語で「年度切替面談」、略して「年切」)を
終わらせないとマズいってのに。
俺は面談禁止だから何も出来ない し・・・」と
どうすんねんという状態が続いた。

そして、時は流れて入試も直前になった。
上司Aから連絡が入ったのは、都立入試直前、2月23日の夜半前だった。

「最終出勤日の話なんすけど、FTさんは2月一杯で考えてて、
27日以降は清瀬の校舎で、次の仕事見つかるまで
講師として出勤してもらえないっすか?
そこの教室長(Mマネージャー)から近々電話来るんで、話し合ってシフト調整してください。
後任は新卒のFさんが配属される”予定”だから大丈夫です。」と言われた。

…「予定」って事は、「確定」ではない。私は呆れて何も言えなくなった。
何が「大丈夫」なんだよ。
カタカナで「ダイジョーブ」と書くより信憑性が薄い。

後任が決まらぬまま私が突然消えたら、困るのは生徒・保護者である。
生徒の中には、私を父親だと思っている位に懐いている幼い子達(某血小板くらいの年齢)もいる。
私も年齢的に父親やっていても何らおかしくないわけだし。

「ね~だっこして~orおんぶ~」と寄ってきて、勝手にコアラの如く私を登るわけで。
まさに「うわようι゛ょつよい」(笑)。

更に、特別支援学級・自閉症・ADHD・アスペルガー・LDといった
年々増え続けている「発達障がい」の子も少なくない。
こうした特殊事情を抱える子達にとって、急な環境変化は危険である。
(逆に悲しい位気にしてくれないのも居るけど(汗))
ちゃんと移行期間を設けないと、何が起こるか予測がつかない。波風も立ってしまう。

それに、私の自尊心の問題だが、
生徒・保護者から「あの野郎、いきなり消えやがってェ・・・」と、
埼玉の校舎の時と同じ反感を抱かれる事や彼ら(顧客)を裏切る事も、もう厭だった。

何より、生徒に別れすらも言えぬ上、
ずっと見てきた受験生達の合否も知れぬまま
消滅させられる事は、私にとっては未練でしかなかった。

それで清瀬のヘルプに行けだと?(ちなみに片道2時間)
この会社はどこまで私を愚弄するつもりなのか?と思いながら
入試を終え、いよいよアラサー目前の齢を迎えた。


 【2017年3月12日追加】
第10章:懸念の的中)

私は待ちに待ったが、清瀬校からの電話は一向になかった。
「じゃあ人足りてんでしょ?
そもそも厭で辞めていく以上、会社と縁を切りたいわけだし」と、
私は清瀬校のヘルプの事を関知しなくなった。
(実際、3月上旬に着信が大量に着たが、申し訳ない思いを押し殺して「何を今更」と着拒にした)

一方、「新人Fが正式に私の後任になる」という話も、
2月23日以降一向にない。私の退職手続に関する話もない。
(私から聞かなかったのも悪いのだが)

クロノスは時に残酷であり、私の退職日が否応なしに近づいていた。
結局私は何も出来ず、気を揉むばかり だった。
(鬱病患者にとって、こうした不安な状況が続くのは非常に良くない)

そして、2月27日の朝=私の退職前日に、
例のクラッシャー副マネージャーIからLINEで続報が入った。
「14:00に”後任の”Fさんがそちらに向かいます。
FTさんは生徒情報の引継をしてください。」と。

私はクラウド上の社内カレンダーで新人Fが来る事を予め把握していたので、
データや文書の準備は済ませていた。

「「後任の」とLINEにキッパリ書いてある以上、人事は確定したってことか?
そもそも、Fの心の準備は大丈夫なのか?」という懸念が脳裏にあった。
非常に杜撰な会社である以上、この位想定しないとダメなのだ。

13:52頃だった。LINEで聞かされた通り、新人女性社員Fが来た。
注:16年新卒入社であり、かの清瀬校で副教室長として1年間修行したコである。
塾業界は、「訓練された素人」等の余程の事情が無い限り、新卒=即戦力とはいかず、
最低でも1年の研修期間を経ないと戦力にならないのが実情だ。


引継に入る前に、私は新人Fに対し
「ここの後任に配属されるって話はいつ聞いたの?」と問いかけた。
「実は先週話があったばかりで…。いつからここに本格勤務になるのかも
分からなくて…。」と大層困惑した+不安そうな表情だった。

「そっか。案の定、か…。」私は言葉を続ける事ができなかった。

怒りを通り越して、諦めしかなかった。
しかし、感情的になっても事は進まない。
2時間ほどかけて、私は新人Fへ、受け持っている全生徒の情報を伝えた。

しかし、あくまでも文書・口頭情報である。
新人Fにとって初対面である事に変わりは無い。
緊張・警戒するのは人間心理上当然。
実際に会ってみなきゃ分からん事の方が多い。

それに、引継は生徒情報だけではない。

保護者がどんな人なのか
近くにどんな学校があるのか
生徒はどの辺りの地域から来ているのか
どの辺りに大きなマンションや団地があるか
そもそも二期制なのか三期制なのか
定期考査はいつ実施されるのか
学校の近くでチラシ配っても怒られないか
校舎のどこに何があるのか
建物の大家は誰なのか
この校舎の遍歴はどうなっているか
どんな講師を雇っているのか
現状、お金関係のやり取りがどうなっているのか
教材は何を使っているのか
保護者とどんな約束をしているか
お手洗いはどうやって掃除しているか
ゴミはいつ何を出すのか
そもそもゴミ捨て場がどこなのか
校舎のPCアカウント関係の情報
などなどなどなど。

B2Cのお客様商売である以上、引き継がなくてはならない情報は、
普通の事務職を軽く凌駕する。
1日じゃとても間に合わない。半月は最低でも必要だ。

しかし、私は次の日で退職させられてしまう。
しかも、新人Fは別校舎ヘルプで次の日は私の職場に来ない事になっていた。

言い換えれば「2月27日の1日だけで全部引き継げ」と強制されたようなもの。
私もこの子も、お互い「ぷよサターン」を予告されたようなものだった。

2月27日のうちに、可能な限りを伝えた。
翌日、結局、私は誰にも見送られず
(誰からも、上司すらからも電話はなかった)、
生徒にも保護者にもサヨナラすら伝えられぬ儘、
2年半過ごした、江東区の校舎を一人で去った。

哀しかったし、悔しかった。
何が「教室長最後の日」だ。
「7つの習慣」なんて糞食らえ、と再び思いつつ。


  第11章:召還)

3月1日。
何も出来なかった無力感と、
子ども達にサヨナラも言えなかった未練は残っていた。

「仕方ねぇな、ゲーセン行って気晴らしでもしてくるかね。
てか年貢カンストしてるし」
(詳細はbeatmania IIDX24 SINOBUZ公式サイトへ)」と思った矢先、
前日まで勤めていた校舎から緊急連絡が入った。

電話の相手は後任=新人Fだった。
「19:00以降の授業(ちなみに特別支援学級の子を含む)を
持てる人が居ないんです。
来て貰えないでしょうか。お願いです助けてください…。」
声からして泣きそうだったのが伝わってきた。

実は新人Fはド文系で数学を担当できないようなのだ。
それに、近隣の校舎も人手不足で、ヘルプに回せる人員の余裕などない。
近くの校舎の社員も、面談ラッシュの時期故に対応不能。

「いや、もう退職したから知ったこっちゃないよ」であしらえばいい話だった。
でも、そんな事したら新人Fをかつての自分と同じ目に遭わせてしまうし、
自分も前任T(第3章参照)と同じ仕打ちをする事になる。
生徒にも迷惑がかかる以上、放っておけない。

私は躊躇しつつ
「ホントにクラッシュ万事休すなの?
アテは全部当たったんだよね?」と一度聞き直した。
「そうなんです…。」と、今にも泣きそうな返答だった。

「このままだと生徒が困っちゃうよな…。
それに、彼らは俺指名だったからね…。
もう俺しか解決のアテがないんだよね。
なら、今からそっち行くよ。じゃまた後で。」と、迷いなく答えた。
「ありがとうございます」と、
疲れきった安堵の声がガラケーから漏れた。

普通の人間なら、「バカじゃねぇの?頭大丈夫?」と思うだろう。
(実際、親からも「お前の行動は理解できない」と罵られた
そりゃ、退職した職場に顔出して、従前通り仕事するわけだから。

これが異常の極致である事は自覚していた。
しかし、子ども達に非は何らない。
無関係な「大人の事情」に子どもを巻き込むのはもうゴメン だった。

何度も述べているように、私にも、
子ども達に別れすら告げていない、合否も知る事ができない、
満足に引継もできていないという未練が残っており、
私と新人F、お互いの利害が一致してしまったのだ。
これが「Win-Win」なんて言いたくもない。

こうして、私は世にも奇妙な復職を果たす事になった。


  第12章:地縛霊)

3月1日の件は、私が対応した事で無事収束。
以降も対応できる講師が手配できないし、
引継も不十分ということで、
一部の授業は、暫く私が従前通りに出勤して授業を行う事になった。

勿論、徐々に新人Fへ仕事を投げていくという前提の下である。
そうでもしないと、私がいつまで経っても辞められなくなる。

いや待て、冷静に考えてみよう。
この、地縛霊状態に対し、給与は出るのかという疑問がふと浮かんだ。

一人のすみっこ暮らしではあるが、
この世に存在する以上、仕方なく場所と金を取る事は避けられない。
鬱病の医療費も、毎月1万円程度である以上バカにならない。
この奇妙な行為をボランティアで請けるわけにも行かなかった。

そして、ある疑いも浮上した。
第9章で上司から「2月一杯」と言われたのだが、
実は、この話は労使間の折衝を経ず、
上司Aから一方的に宣告された ものだった。

私が重い鬱病に侵されていた事は、
16年11月上旬に上司Aへカミングアウトしている。
これが最高幹部T・Sに伝わり、
「鬱だから」と、一方的に予告なく私を解雇したのではないか?
だとしたら不当解雇=労基法違反ではないか? という疑いである。

3月7日の夕方、私はこうした疑問を、会社の最高幹部Tにメールでぶつけた。
(電話しても出なかったし、長いので文書の方が良かろうと判断したから)

程なくして、「こっちも確認したい事があるから、
10日の昼過ぎに新宿ルノワールへ来い」というレスがあった。
私は労使トラブルに備え、ペン型の小型ボイスレコーダーを購入した。
パナソニック製で10230円と割高だったが、wav+44.1のビットレートで録音できるなら、DTMにも使えるでしょうと思って(笑)。

そして3月10日、私は最高幹部T・Sと1時間半程面談をしてきた。

冒頭、早速衝撃の事実が発覚した。
両名とも、私が2月で「退職した事にされていた」事そのものを把握していなかった のだ。

私が送ったメールを読んで、私が地縛霊状態+新人Fが
「混乱少女そふらんちゃん」状態になっている事を知り、
「え?どうなってんの?」とお互いハテナになってしまったとの事だった。

ならば、2月23日に入った、「2月一杯で」という上司Aからの電話は何だったのか。

「どういう事ですか?Aマネージャーの独断ってことですか?」と聞いたら、
「いや、うちらも分からないのよ。だから今調べてる」とはぐらかされた。
会社都合退職、不当解雇ではない事だけは分かった

地縛霊状態や、溜まりに溜まった有給消化については、
私の雇用契約を延長+書面上の最終出勤日をずらし、
その分の給与を支払って対応する事で折り合いを付けた。
(有給買い上げは出来ないとの事だった。*違法ではない)

こうして私の未練は、壮絶な勘違いを経て、
「事実上の雇用契約延長」によって晴らされることになった。

5章でも述べたが、こうした壮絶な勘違いは、
私や会社側が退職の旨を
お互い「オーラルでオーライ」と済ました事が元凶である。
法的に見ても、退職をする時は、ちゃんと「退職届」という
「証拠書類」を以ってやり取りするべきだった。

一応、こうした退職にまつわる書類手続を3月末に行う事も決まった。

とはいえ、どこまでも杜撰な会社だなぁ、
呆れて何も言えないやというのが正直な心境だ。
その裏で「いい加減にしろ、どこまで私を愚弄するんだ」
という殺意の波動が、サイヤ人の如く沸いているわけで(笑)。

ゼノブレイドXのマルナーク族ではないが、
「いい気になるな…」と、私はある行動を起こす事にした。
ゲーム内と同様、圧倒的な体格差に踏み潰されるだけで終わるかもしれなかったが。


  第13章:リベリオン その1)
リベッチオじゃない

第10章で「最終出勤日に電話してくる奴すら居なかった」と書いたが、
実は、職場を去る前に、私から近くのとある校舎へ電話をかけていた。

在職中、何度もピンチを救ってもらい、会社の中で最も恩を感じており、
この教室長(以下同僚Sと表記)だけには何としても退職の挨拶をきちんとしておこうと思ったからである。

その同僚Sと2時間ばっかし話をしたのだが、
「いや~、そんな状態だったんですね…。そりゃ鬱になりますよ。
プライベートまで潰れちゃったんだから、労災申請すべきですよ
俺達の事なんて気にしなくていいから」と言われた。

後任が決まらない、受験直前など、
そんな事微塵も考える余裕もなくやってきたので、
初耳の如く「はぁ…。ソーナンデスかぁ」と、キョトンとしてしまった。

個人的には「はわわっ!wな展開」だったが、
3月に入ってから、地縛霊状態の傍ら、
私は労災について、厚生労働省・労働基準監督署や、
各地の労働組合・社労士事務所などのHPを流し読みするようになった。

精神疾患(鬱病)による労災申請が認定される確率は30%程度 である事、
精神疾患による労災申請には、
1:鬱病など、特定の精神疾患に罹っている事
(診断書出せばOK(ただし診断書代は労災から出ない))

3:身内が死んだ、離婚したなど、プライベートで辛い事が起きていない事
(何が原因で病気になったのか分からなくなっちゃうから)

2:厚労省が定める評価項目で、一定以上の水準に入っている事

(ちょっと怒られただけで、交番で上司をヘッドショットした警官が居たように、
「あんたが豆腐メンタルなだけ」って事で弾かれる事もありうる)

(長いので詳細は厚労省HPや、「メンタルヘルスマネジメント検定」関係の書籍を参照されたし)


という、3条件を満たしているかどうか、
労働基準監督署やその上の地方労働局が認めるのが必須である事、
更に、多種多様な書類や証拠が必要である事など、様々な情報をゲットした。

労災が認められれば、失業手当や傷病手当等よりも手厚い保障が受けられる。
(ただ、申請から認定までに半年前後を要するのが欠点だが仕方がない)
*労災と失業手当の違い・メリットについては長くなるので他所で調べて欲しい。

それに、会社に対してもガサ入れが入り、
数多の労基法違反が白日の下に曝され、
是正勧告や社名公表
(通称「ブラック企業リスト」への一定期間掲載)といった、
行政指導の裁きを下される事になる。

「超ブラック企業へ制裁のワードを」という、
因果応報のカルマや勧善懲悪のカタルシスを
求めているわけではないといえば嘘になるが、
補償を受けられるのなら、それに越した事はないし、
可能性もゼロではない。ならばやれるだけやってみよう。

しかし、丸腰なまま、取り留めもない愚痴を
労基署に零しても門前払いだ。
労基署は役所でありカウンセラーではない し。

思い立った私は、これまでの経緯(第1章~第8章のあらすじ)を、
「これまでのラブライブ!」の如く、
時系列ごとに手書きでまとめた(手書きの方が証拠能力が高い 為)。

3月9日の昼下がり、私は某駅前の労働基準監督署へ恐る恐る足を運んだ。
上司Aの勤める校舎の近くだから尚更ビクビクである(笑)。

「鬱病での労災申請で参りました。詳細をお聞かせいただけないでしょうか。」と、
デスクから出てきた、「厚生労働省」というジャケットを羽織った女性に話した。

ネット上で「日雇いの素人とか新人とかが窓口対応をしていて、
「民事不介入だから」と門前払いになる事も少なくない」と聞いていたのだが、
運が良かったのか、その女性は1時間強の間、丁寧に話を聞いてくれた。

「原因となる事象が複雑で多すぎるので、
実際に申請してみないと何とも言えないですね…」との事だった。
「会社とあなたの名前を教えて欲しい」との事だったので、
洗い浚い全部喋っておいた。

「ついに国から目を付けられたぞ、ざまぁm9」
という感情が無かった訳でもないが(笑)。

私がまとめた経緯の文書も
「証拠として一旦コピーさせてもらいますね。申立書 の方には
もう少し詳細に書いてもらうといいですね」と、証拠として認められた。

労災申請の手続についても詳細に教えてくれた。
予てから聞いていたように、確かに書かなきゃいけない事は山ほどある。
補足:症状が酷くて自力で書けない場合は代筆でもOK。
また、会社の署名欄があるが空欄で問題ない。

それに、証拠を探す事がかなり膨大な作業になる事も想像できる。

こんな事やってる場合なのだろうか?
さっさと転職活動すべきだろうに、という迷いや親からの圧力もあるが、
病気を治す為の保障を受ける為、
私の心を殺し、人生のどん底に突き落とした、
会社に対する恨みを、閻魔あいに頼らず 晴らす為、
一緒に働いていて、私と同様に会社のブラックさに苦しんでいる、
かつての仲間達を救う為、
昨今の宅配業界のように、塾業界のブラックさに対して、
もっと多くの人が興味関心を持ってもらう為、
鬱病という現代病に対して、もっと社会の認識を深めてもらう為、etc...

目的を考えれば数多と出てくるが、
何よりも自分の人生を守る為だと思って、
ダメ元でも労災申請をしてみようと決意した。

通らないにしても、民事訴訟で損害賠償請求って手段もあるが、
そこまでは考えていないし、勝訴できる可能性も決して高く無いし、
時間とお金の無駄になってしまうだろう。


 第14章:地縛霊 出没)

12章の労使交渉を経て、3月13日から28日まで、
16:00~22:00の短縮業務ではあるが、職場復帰する事になった。
しかし、私は2月28日に全社へ「退職します」と言ってしまったので、地縛霊状態である事は変わりない。

私は、授業が始まる前に、10章で列挙した引継事項を新人Fへ一つ一つ伝えていった。
彼女もゆっくり引継ができる事になり、
当初不安しか見えなかった表情も穏やかになった。
(寧ろ、私に反論する位の余裕も(笑)。寧ろ新人はその位やってくれた方が頼もしい。)

また、隙間時間を利用して、私は13章で述べた、労災申請に必要な書類も粗方書き上げておいた。
残るは医療機関への記入依頼、証拠集め、書き方の分からん箇所の質問くらいだった。

教室長が変わりますよ+4月から月謝変わりますよ+春期講習やらないかという面談は、
新人Fとクラッシャー副マネージャーIが手配していた。

全体的に、面談は3章で述べた状態とは
比べ物にならない位平和に済ませる事もできたようだ。
クラッシャー副マネージャーIの不手際を引き金に
1件大きなクレームに発展した事以外
は。

新人Fへの授業引継&講師手配も順調に進み、
3月第3週時点で、私が受け持っていた授業は、
年度末で卒業する中3生(2002年度生まれ世代)だけとなった。
これで、私も後腐れなく職場を離れられると思った。

しかし、最後の最後にダメ押しが待っていた。


  第15章:地縛霊 成仏)

10章の最後で「7つの習慣、クソ食らえ」と悪態を吐いたが、
最後の最後でも同じ思いをする事になった。

この「7つの習慣」の中には、
「自分の葬式をイメージしろ」という一節が出てくる。
(本来の意図は検索するか原著(英語)を参照されたし)

会社ではこれを、教室長という仕事に置き換え、
「教室長最後の日をイメージしろ」という研修を行った事があった。

沢山の講師・生徒・卒業生が見送ってくれる、
保護者さんから感謝の電話が鳴り止まない、
クレームを入れた保護者が花束携えて挨拶に来る、
などなど、色々な「理想論もとい机上の空論」が出た事を覚えている。
あまりにも感情移入してしまい、何故か号泣する輩も居たくらいだ。心底キモい(笑)。

少なくとも、最終出勤日は自分の職場で迎えたいのは、どこの会社でも同じだろう。
しかし、この会社は最後の最後まで私を労働力としか扱っていなかった。

3月20日、祝日なんて教育業界には関係ない
普段通り出勤し、帰途に就こうとした時、
「FTさん、3月23日と28日に●●校にヘルプ行ってくれませんか」と
新人Fから依頼があった。

彼女が独断で依頼してきたものかと思ったので、
「23日ならいいけど、28日は請けられない」と私は拒否した。

しかし、傍に居たあのクラッシャー副マネージャーIが
「何でダメなんですか?他にやることないじゃないんですか?」と、
私の個人的スケジュールまでも根掘り葉掘り聞いてきた。
「最終出勤日に他校舎出勤ってのは如何なものかと思いますけど」と反論したが、
「じゃあAマネージャーに確認します」と反論されて会話は途切れた。

この女が「Aマネージャー」の名を出すと言う事は、
8章で述べたように、奴らはグルになって圧力をかけてくる という事でもある。

案の定、翌日、上司Aから電話があり、同じ内容を打診された。
(こうなると不可避だ…)と思いつつも、
「最終出勤日に出向を命ずる上司がどこに居るんですか?」と強く反駁したが、
「そりゃ分かるけど、状況が状況だから」の一点張りで聞く耳持たず。
結局、私が折れる事で事態を収める事になった。

最終出勤日は、近くの別校舎で見知らぬ生徒達の授業を行い、
私はアウェー感満々で職場を去った。

煮え切らない終わり方ではあったが、
「本当の最終出勤日は3月27日で、28日はエキシビジョン」と考える 事で、
溜飲を下げる事にした。
補足:こうやって、捉え方を転換してストレスを回避する手段を「情動焦点型コーピング」と呼ぶ。

3月29日、私は再び新宿ルノワールで退職手続をする事になったのだが、
これがまた杜撰だった。

就業規則には、「退職する際は、所定の様式の退職届を提出する事」と
書いてあったので、何か決まった書面が用意されていると思いきや、
その場で転職Hackのテンプレを手書きで便箋にコピペして、
ハンコをめうめうしただけ
だった。

補足:会社の就業規則は早めに労基署へ提出すべし。
ガサ入れ以前に労基署に就業規則を把握してもらうだけで、
かなり有利に事を進められる筈だ。


最後に一悶着はあったが、これで後腐れなく会社を離れ、
鬱病療養に専念する事が出来るようになった。


  第16章:リベリオン その2) 
リベッチオじゃない(しつこい)

2017年4月。 私は1ヶ月弱の有給消化期間に入った。
15年度からの繰り上げ分を含め、未消化の有給休暇は23日。
(基本的に、有給は2年で失効する ものである)
実質、休日出勤の代休を含めたら倍近くになるだろう。

しかし、タイムカードすらなかった以上、
「代休」という概念はこの会社には存在しなかった。
というか「休日出勤しても、オレ達は「アイツは趣味でやってる」と看做すから」と、
上司Aが堂々と公言していたような状態だった。
(これも録音しておけば証拠になったのだが、口頭でも労災の証拠として認定された

こんなに長い休みは、大学2年の春休み以来。
ニュースを観続け、北朝鮮にまつわる冷戦状態を見たり、
政治家の失言連発に呆れたりしつつ、
「あ、洗剤買ってないや」等、何かと口実を見つけては、
無理矢理外出するようにした。
鬱病にとって引き篭もりは禁物である

そんな中、私は労基署に何度か足を運び、書類や証拠について担当者と話を重ねた。
私が通っている病院は「労災指定外」故、労災申請に関する書類の書き方に疎かった。
その為、保険の契約書のように、付箋やメモで、
どこに何を書くべきか、私が病院に書面で指示した方が無難だった。
(ちなみに、病院に書類を書かせると、手数料数千円を取られるが、この手数料は労災から出ない=自己負担となるので注意)

4月19日、機は熟した。
病院に記入を依頼していた書類(様式第7号)を受け取り、労基署へ直行。
書類の1枚1枚に労基署のハンコが押印され、労災申請は受理された。

それから音沙汰なく、有給消化期間終了。名実共に「ニート」になった。
(厳密には鬱病療養で就業不能だからちょっと違うのだが)

杜撰な会社だったが、離職票と雇用保険資格喪失書はちゃんと届いた。
しかし、宛名が誤植しており「社員の名前もマトモに書けん
会社なんて潰れちまえ(苦笑)」と、
最後の最後まで煽ってくれたのだった(笑)。

世間の一部が「GW前のプレミアムフライデー!」と騒いでいた4月28日、
自宅PCのメールボックスから新たな証拠が見つかった。
(持ち帰り残業の為、自宅PCにも業務メールを受信できる環境を整えていた)

詳細は割愛するが「 会社幹部が社員の長時間労働を把握しつつも、
職場泊を美談扱いしている
」内容だった。
(プレミアムフライデーにこんなネタを見つけるのも如何なものかと思うがw)

速攻で労基署に向かい、
「労災の証拠資料を提出しに参りました」と受付にドヤ顔で申告。
「ああ、FTさんですね。じゃ、そこにお掛けください」と案内された。
最早顔パス(笑)。

「これも証拠として受理しますね(苦笑)」と、
出した資料に労基署のハンコが押され、受理された。
この時16:45だったが、労基署は全員普通に業務中だった (笑)。

ついでに、監督官から、労災申請の進捗について具体的な説明もあった。

監督官「申請は受理されていて、証拠資料に目を通しています。」
私「数が膨大で非常に恐縮です…。しょーも無い事ばかり書いてて…。」

監督官「いいえ~。証拠は多い方がいい ですから。
FTさんが申立した内容から、 うち(労災課)と、
あっちの(労基法違反を調べる)部署の
協働で会社を調べる事になりました
。」

私「そーなんですか。申立書に書いてないんですけど、
ヤマト運輸みたいに、残業代未払 とかの
他の労基法違反もありますよ(笑)。」

監督官「そうなんですか。とりあえず、GWが明けたら、
あっちの担当者を引き連れて、会社へ立入調査(通称「臨検」「ガサ入れ」) に入ります。
(労基署の)上から「(臨検に)行け」と指示も出てますし(笑)。
残業代未払とかの労基法違反は、その中で明らかになってくると思いますので。
FTさんへのヒアリングは6月頃、会社への再聴取 は7月頃になりそうです。
時期が決まったら電話しますね。」

どうやら、労基署側も事を重く見てくれた ようで、
会社を徹底的にガサ入れする構えのようだ。

当の会社側は、10年以上従事してきた私が、
まさか反旗を翻すなんて考えることなく、
千葉県内の旅館で、呑気に社員旅行を謳歌していた事だろう。

この会社は決算が4月締めの為、5月から新たな会計年度となる。
新年度早々、初夏の風に包まれる間もなく、
晴天の照焼…違う、霹靂が轟く事になる。


  第17章:煉獄の本能寺) 

労災申請を終え、GWも終わった5月、
職安に行こう、~ネクストに登録しようなんて
意欲は未だ全く沸かない。
一応、職安には行ったが、案内のおばさんから
「就業不能じゃ対応できないので、治ってから来てくれ」と言われ門前払いだった。
確かに隣の駅は門前仲町だが。

鬱病で「何もしたくない」という気持ちしか出てこなかった。
外出も無理矢理理由をつけて
体を布団から引き摺り出すような感覚だった。

更に、4月末から新たに服用し始めた
「リーマス」という、リチウムを含む薬の副作用で、
私は重度の不眠症や、持病の偏頭痛の悪化、
下痢に悩まされ、心身共に容態が悪化していた。

補足:製薬会社のHPによると、リーマスの副作用は主に手の震えだが、
極少数の人間に、不眠・頭痛・下痢といった症状が出るらしく、
私はその「レアケース」に該当してしまったようだ。

また、「おくすり手帳」に記載されている情報は、不確実ではないがぶっちゃけ不十分なので、
新しい薬が処方されたら、薬の名前でググって製薬会社HPに目を通す事を推奨する。


結局、リーマスは私には逆効果だと判断され、
薬は3月まで飲んでいた「サインバルタ」に戻った。
「寝たいのに眠れない位なら、起きてて常に眠い方が余程マシですわ…」と医者に懇願した。
寝る暇すらなかった位多忙だった人間が、今度は睡眠障害の辛さを身を以って経験したのだった。

一連の副作用が収まり、5月もまた月末がやってきたが、
「プレミアムフライデー」という浅はかなワードは、最早世間のトレンドに埋没していた。
「竜頭蛇尾」とはこういう事だ…と思っていたら、携帯電話に見慣れぬ番号からSMSメールが来た。

送信者は、13章で私が電話した相手:同僚Sだった。
誕生日は私と同じだが、年齢は私よりも1.5倍上の方である。
「今週末に食事でもしましょうよ、特ダネもいっぱいありますよ(笑)」というお誘いだった。

「う~ん面倒だ…」と思ったのだが、
「いやいや、寛解の糸口かもしれぬ」と考え直し、「喜んで~」と返答。

補足:鬱がまだ重症の場合、待ち合わせや食事会のお誘いというのは実は心的負担が大きい。
遅刻したり、ドタキャンしたりする事も多いが責めないで欲しい。


5月最後の週末の晩、東京駅某所で3時間ばかり近況を語り合った。

食事の場には、第1章で私が最初に配属された校舎の
教室長H(年齢は私より2つ上)もたまたま都合が付いたらしく同席していた。

私は「Sさんのアドバイスのお蔭で労基署に労災申請しましたよ~」と近況を切り出した。

一通り落ち着いた所で、
「FTさん、ホントにベストタイミングの退職でしたよ」と言われた。
彼らの話を総合すると、私が会社を去り、年度が替わった直後、
会社は大炎上 状態になったとの事だった。

当初、私は(労基署が臨検入ったからか?)と思ったのだが、
彼らの口から語られた事は、私の労災とは無関係な内容だった。

何と、古参・新人・幹部含め、社員が一気に数名退職したらしい のだ。
新人に至っては 5日で辞めたらしいが、
塾業界で即日リタイア・蒸発なんてよくある話
なので騒ぐほどでもない。
入社3日で辞めた、元ドンキ 幹部も居たし(笑)。

何よりも、 課長クラスが突如3名退職する事になって、
深刻な人手不足状態に陥った
との事だった。
うち1名は新婚ホヤホヤだが恐妻家、子どもも生まれたばかりなので、
「仕事と家庭の両立を考慮した自己都合退職」ではないかとの事だった。

残り2名の幹部が衝撃的だった。
AさんとIさんは、6月で退職して独立するって急な社内発表がありました よ。
4月の社内旅行も今月の社内会議にも来てませんし。」と言われた。

この2名とは、第7・8章でグルになって私を精神的に追い詰めた、
あのクラッシャー副マネージャーIと上司Aだった。


「あの連中、どこまでも一蓮托生ですね(笑)」と私が爆笑しながら返答すると、
「実は、Aマネは今相当ヤバい事になってて…」と補足された。
「アイツまた鬱病発症したんすか?俺が伝染させちゃいましたかね~(笑)」と、
(上司をアイツ呼ばわりする私も私だが、それだけ従属意識がなかった)
冗談交じりに返した。

そのヤバい事とは、想定以上にヤバい事だった。

【17.11.22加筆】
その 上司Aは、不法投棄幇助の容疑で近く警察に捕まる 可能性が濃厚だと、
H教室長から告げられた。
(彼も廃棄物処理を上司Aに委託した為、業務中に警視庁から事情聴取を受けたそうだ)

どうやら、上司Aが依頼した廃棄物処理業者が、
各校舎から集めた廃棄物を、そこらの野っ原にポイ捨て=不法投棄していたようなのだ。
結局、そのゴミが証拠で業者と共に足がついた
、という経緯だそうだ。
これ以上は分からないが、「巻き添えかイモヅル」で捕まるハメになったようだ。

「つまり事実上の懲戒免職ですな。個人的にはざまぁm9とは思いますけど、
I(クラッシャー女上司)も
その不法投棄事件に関与してるんすか?」と私は返した。

「いや、彼女は関係してないんですよ。
あれだけ長い事同じ部署に居たんだから、
Aマネージャーと結婚して寿退職では?と
社内で冗談交じりに言われてますけどね(笑)」と言われた。

「なら、思い当たる節があるんですよ…」と私は不敵な笑みを浮かべた。
「え?何ですか?」と食いつく二人。

「多分、彼女も事実上のクビですよ。 私の内部告発 が効いたのでしょう。」
「どういう事ですか?詳細教えてくださいよ~」と場は一気にヒートアップ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
時は少し戻るのだが、3月に私が最高幹部T・Sと面会した時(第12章・第15章)に、
第8章で一部掲載した、副マネージャーIによる無視・挨拶をしないといったパワハラ・モラハラ行為 や、
第14章で述べたクレームの件や経理ミス隠蔽 等、彼女の悪行を、
私は最後っ屁として洗い浚い内部告発していたのだ。

部署内での人間関係は崩壊していたが、
私は最高幹部2名には好かれていた方だった。
(近い上司ではなく、年齢の離れた最高幹部に好かれる傾向があるのは何故なのか…)

社内の好き嫌いはさておき、私はこの副マネージャーIが
自ら起こしたクレームや経理ミスを隠蔽している事や
「他人の粗探しには余念が無いのに、自分のミスは隠蔽」という、
幼稚な人間性が許せなかった。

(死人に口無しだから辞め際に爆弾投下しとこう、
最高幹部の彼らは私を疑う事はないだろう)という事で、内部告発したのだった。

ついでに、クレームのメールのコピーと
経理ミスの根拠と隠蔽の経緯(スクショ)を証拠として提出し、
彼女の逃げ道を完全遮断した。

経理ミスとは、「教材を、間違えて本来より安く売っちゃった」という経緯だ。
私は2017年の仕事始めの時点でIに対して帳尻のズレを指摘した所、
「対応しておく」の一言で片付けられたのだが、3月になっても対応されていなかった。
よりにもよって、その安く売っちゃった相手とは、14章でクレームメールを送ってきた御家庭である。


私の目論見通り、第14章のクレームが隠蔽されていた事と、
上記経理ミス隠蔽の2点が最高幹部の逆鱗に触れ、
「マジありえねぇ。アイツにはやはり裏の顔があったんだな。
FTくんの名前は伏せた上で、後日、本人に事実関係を確認する。情報提供有難う。」
と言われて、12章の面会を終えたのだった。

15章の面会の際も、別れ際に「Iの件は社長にも報告した」とも言われた。
1へぇと思いながら、深入りせず歌舞伎町のゲーセンに向かい、
エキドナさんを召喚したもののコテンパンにやられたのだった(笑)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「…って事があったんですよ」と、
気づけば10分ほど私の独断場になっていた(汗)。
テーブルの先では2名とも言葉を失いつつ、
「だから上長が最近静かなんですね」と妙に納得した様子だった。

「これまでの話をまとめると、 ・深刻な人手不足に陥ってて ・更に警察沙汰になってる
って事ですよね。そこに、 ・私の労災の件で労基署が臨検に入ってる
って事だから、最早大混乱状態ですわな(笑)」と私は続けた。

「労基署のガサ入れの話は特に聞いてないので、上で止めてるんでしょうね」と言われたので、
私の労災申請の件は社内で幹部止まりになっている事も分かった。

「これで、幹部が捕まるわ、
厚労省ブラック企業リストに社名掲載になるわとなったら、
間違いなくFC加盟解除になりますわな~。
監査団体(スーパーバイザー)の連続指摘も見てみぬふりですし。(爆笑)」
と、本当の意味での「ブラック」ジョークで盛り上がったのだった。

現場に残っている彼らも「一度加盟解除になった方がいいと思いますよ。
そうでもしないと、今の上層部は働き方改革とかの根本改善なんて
やろうとはしないでしょうから。」と自嘲気味に語っていた。

こうしたダークな話で盛り上がり、季節外れの暑さの夜は更けていった。

「敵は本能寺にあり」と私は反旗を翻したのだったが、
既に本能寺は別件で炎上しており、
火に油を注いだ形になっていたのだった。


  第18章:暴露と曝露) 

6月に入った。
労基署からの続報がなかなか来ない事や、
病状がなかなか改善しない事に不安を覚えていた。

補足:労基署から電話はそんなに来ない 。彼らも人手不足で悲鳴を上げているし。
電話といっても、証拠の追加提出依頼や面談のアポ取りくらいで、
四半期に1度かかってくるか否かの頻度 である。
進捗どうですか?と確認したい場合は、こちらから電話するか、
労基署に直接足を運ぶと良いだろう。

でも、新しい仕事を探そう、どこかに出かけようという意欲は一向に起きない

梅雨入りなのに全く雨が降らず
「2017年夏は異常気象」と言われるようになってきた頃、
労基署から「FTさんから詳細をヒアリングしたいので、
日程決めましょう」という打診の電話が来た。

6月20日の朝。
教室長を辞めてろくに転職活動もせず、
すっかり埃まみれになったスーツに袖を通し、
感じた事のない違和感を覚えながら労基署へ直行。
(別に私服でいいんだけど、公的な手続なのでフォーマルウェアの方がいいかと…)

到着するや否や、カウンター奥の「認定室」と書かれた、
学校の保健室のような小部屋へ通され、
おばちゃん職員が熱々の緑茶を持ってきた。

もう一度言うが6月20日である(苦笑)。実際、朝から気温は30℃近かった。
労基署の担当者も「何でホットなんだよww」と苦笑いしていた。
(たまたま水出しの茶を切らしていたらしい)

もうもうと湯気の立つ緑茶を挟み、ヒアリング=聴取が始まった。
私の生い立ち(主に学歴と職歴) と、
これまで私が労基署に提出してきた証拠書類に関して、詳細な証言をした。

ここで長らく述べてきた経緯の光景やその時の私の気持ち
受けてきた中で特に大きかったクレームの詳細
(どの様な言い方で言われたのか、どんな内容だったか)
何という社員からどんな言葉・行動で
パワハラを受けたか
等をコメントし、
労基署の担当者が議事録の如く
Wordデータ(聴取記録)に記録していくという流れ
で聴取は進んだ。

思い返すだけで吐いてしまいそうになるくらい辛い過去を
自ら語らなければならないので、
「傷口にマキロンを塗る」どころの精神的負荷ではない。

しかし、私自身が語らぬ事には話が進まない 。喉元過ぎれば熱さを忘れる。
一時的なフラッシュバックを耐えればいいだけ。
気を確かに…と念じつつ、私は必要な情報を全て証言した。

労基署側もこうした精神的負荷には最大限配慮してくれるので、
ホントにムリなら代理人を立てたり、
聴取を別の日に延期したり、詮索を回避したりしてくれる


こう書くと警察の事情聴取みたいに重苦しい雰囲気なのかと
思われるかもしれないが、割とフランクにやっていた。

労基署:そのクレームってどういう言い方で言われましたか?
私:机叩きながら怒鳴る程度でしたね、渦中の「このハゲ!」よりはマシでしたよHAHAHA(笑)
*当時、豊田真由子の暴言・暴行問題が報じられて間もなかった為
労基署:分かりました(笑)
という感じで。
流行語大賞にノミネートされるなんて予想もしなかったが。

最後に聴取記録の内容を私が確認し、
大量の誤字脱字(あと文法ミス)を添削して、
(こればっかりは職業病で…)
署名とハンコをめうめうして終了


文章に起こすだけでもコレだけの長さになるわけなので、
聴取は延べ5時間半に及んだ
別の日に順延しても良かったが、
私も労基署もお互い「大丈夫!!」って事で一度で済ませた。
担当のKさん、昼飯も食べずに対応しておられたがいいのだろうか…。


  第19章暴露と曝露2 

実は、この聴取に於いて、長時間労働&違法残業については証言レベルでしか証拠を残せなかった。
在職当時、この会社にはタイムカードすらなかったからだ。
(18.4.15追記:本件で労基署から是正勧告が出て、労基署から厳しく目をつけられたらしく、
17年下半期あたりからタイムカード的なメールが導入されたらしい)


これについては労基署サイドから
「既にTwitterの全記録は頂いてますけど、(詳細は後述)
他にタイムカードの代わりになるものってありますか?
この会社は、フレックスタイムを謳いながらも
・14:00までに空メールを送る事で出勤扱い
・23:00までに業務日報を送る事で退勤扱い
って事でいいんですよね?
ならば、「 空メールの送信時間と業務日報の送信時間の対応を取った表 」みたいなものがあるといいですね。
勿論、サービス残業の実態と乖離してしまいますけど、その旨は聴取記録に書いておきます。」
という提案があった。

「全てではないですが、個人用PCに業務メールは保管してあるので、探せばある程度見つかると思います。
見つけ次第、Excelにまとめて後日御提出しますよ。」と、私は快諾した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・【重要補足】・・・・・・・・・・・・・・・・・
栄えある「ブラック企業大賞2016」に輝き、
50万円の罰金刑が確定した「電通」の事件では、
故人のTwitterの投稿時間が労災認定の証拠として扱われた
(御遺族への配慮の為、名前は伏せる)

同じく同賞にノミネートされた、埼玉県のスーパー「いなげや」の事件については、
セコムのセキュリティシステムに記録されていた
入退出時間が労災認定の証拠となった


このように、たとえタイムカードが無くても・形骸化していても、
タイムカードに代わる時刻記録さえあれば、
労基署は証拠として認定してくれる

(実際に労基署へ聞いた所、 防犯カメラの動画や、
PC等のログイン・起動時刻のログでもOK
とのこと)

ちなみに、私の場合、
・防犯カメラ→校舎にはダミーしかなかった
・各種ログ→PCが低スペック&本部の基幹システム(SilverlightベースのCGI)に
膨大なマシンパワーを要するという理由で
常時ONにせざるを得なかった
・自宅PC→2016年2月に買い換えた

という事情で証拠として出せなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

6月20日の夕暮れ、
労基署の聴取を終えた私は満身創痍で家に戻り、
そのまま3日位ぐうたらして、
フハハハハ…!!とコンティニューした。

様々なディレクトリや外付端末を漁ったり、
「ファイナルデータ」で削除したメールを復元したりして、
2014年7月~9月の勤務時間表を自作した。
(こういう作業は本来総務がやる事だが、
この会社には総務も人事も産業医も居ない
社労士も名義貸しで名ばかり状態という、杜撰の極みだった。)


そして、6月29日の昼過ぎに再び労基署を訪れた。
資料を出して帰ろうと思ったら、
「FTさん、今時間ありますか?あとハンコ持ってますか?」
と聞かれたので「勿論ですよ~」と返答。
*こういう事もあるので、 労基署(役所全般)に行く際はペンとハンコを持参する事を推奨 する。

私は再び「認定室」へ通され、熱々の緑茶がまた出てきた (苦笑)。
前章で私が証言した内容について、追加で聞きたい事が出てきたとの事で、
更に2時間 聴取を受けた。

書類に押印とサインをする所までは同じだったが、
「当時のFTさんの様子を知る社員って、
他に誰かいらっしゃいますか?」と聞かれた。

会社側に資料提出等を求めているが、納期を悉く踏み倒されており、
労基署としても困っている(心象を悪くしている)ので、
他に話の分かりそうな社員は居ないか?という経緯
だった。

(幹部はあれだけ「誠実に仕事しろ!」と社内に啖呵切ってた癖に、
国の公的機関に対して不誠実極まりねーな…)と呆れながらも、
思い当たる社員の氏名と所属を労基署に教えた。

(2017年の夏期講習は、壮大なキャンプファイヤーになるだろう…)と
ほくそ笑みながら。
\ファイヤー ファイヤー ファファファファ ファイヤー/


  第20章:星と家族に願いを) 

空梅雨で烏と共に声を枯らす、
都議会議員選挙を控えた7月5日。労基署から電話があった。

「先日FTさんに沢山の証言を頂いたのですが、
FTさん以外の方、例えば御家族等からも証言が必要 なんです。
労基署に電話入れて貰うように頼んでもらえませんか?」
という依頼だった。

丁度、翌日に実家(近所だけど)に呼ばれていたので、
「母親に頼んでみます」と返答して電話は終わった。

実際、2014年~2016年当時の私の様子を知る身内と言われても、
母親か妹しか居なかった。

7月6日。実家に戻った私は、事のいきさつをオカンに話し、
労基署の電話番号と担当者名を書いたメモを渡して証言を依頼した。

翌朝、オカンから、証言内容の原稿がメールで送られてきた。
「これで頼んだ」と返答し、
数十分後には「労基署に電話しといた」とSMSが届いた。
ウンコの絵文字と共に礼を返した。

それから1週間ほど音沙汰が無かったのだが、オカンから
「実は労基署に電話した後、他にも身内で証言者が居ないかと尋ねられた ので、
(妹)にお願いしたわけ。彼女も仕事で忙しいから、
電話経由で私が文面にまとめる形で労基署に証言しておいた 」と話された。

その数日後、労基署から「御家族から証言を受けました」という電話があった
「期間が長い事や、事象が多岐に渡る事から、
東京労働局に話を上げるのは9月頃に
なりそうですのでもう暫くお待ちください」という続報も受けた。

この労災申請、家族総出の大事の様相を呈してきた。
日夜ゴロンチョしている鬱病ニートごときに
多忙な中、多大な労力を割いてくれた家族に感謝しつつ、
記録的な多雨と冷夏の蒸し暑さと近所の工事に辟易する夏が過ぎていった。


  第21章:秋の知らせ) 

夏が過~ぎ~…ではないが
(風あざみは井上陽水による造語らしいが)
安倍一強・私利私欲目当ての衆院解散で
世間が騒いだ9月もあっという間に終わってしまった。

長らく音沙汰が無かったが、
9月末に労基署の別部署から電話がかかってきた。

労基署には、労災を扱う部署と、労基法違反を取り締まる部署がある
(この部署に後ろ指を差されたら、厚労省が毎月半ばに更新している、通称「ブラック企業リスト」へ仲間入りって事だ)

これまでお付き合いしていたのは前者だったのだが、今回電話があったのは後者からだった。

「残業代未払や長時間労働について、もう少し証拠を出せないか」という旨だった。
具体的には、19章で私が作成した「擬似タイムカード」を
2015年10月~2017年2月分も作って欲しいという依頼だった。

会社側が社員の勤怠(勤務時間記録)を一切管理していなかった為、
私が残していた資料しか信頼できる情報ソースがないらしく、
労基署も会社側も具体的な残業時間の推測が全く出来ず、
途方に暮れていたという経緯
だった。
(この話は24章でも影響してくる)

「この期間は職場のノーパソが相次いで壊れたので、
どこまで手元にデータが残っているか、
また復元できるかは何とも言えない所ですが、
出来る限りやってみます」と私は快諾した。

在職中に、壊れた職場PCから内蔵HDDを摘出して外付HDD化し、
更にそのデータを個人用外付HDDに全て複製していた事、
自宅PCでも業務メールを受信できる環境にしておいた事が幸いだった。
*業務データを私用環境に持ち込むなんて、良い子は真似しないように(笑)

「ファイナルデータ」でファイルの復元を行ったり、
pstからeml形式に変換したり、
Thunderbirdのメールが保存されているディレクトリを探したりする等、
慣れぬ作業で困難はあったが、
Google大先生とフリーソフトで何とか全て自己解決。

10月に入り、私は「2015年10月以降の擬似タイムカード」を少しずつ作成していった。
(こうした作業を通じて、如何にMS Outlookが時代遅れなのか痛感した(笑))
そんな折…(次章へ続く)


  第22章:審判の秋)

10月5日の昼過ぎだった。労基署から着信。
今回はいつもの担当者のKさんだった。
(愈々だな…)と覚悟を決めてガラケーにべったりと右耳をくっつけた。

「結論から申し上げますと、本日、FTさんの労災が認められた と東京労働局から報告がありました。
大変長らくお待たせしてしまいましたが、書類関係で色々お話したい事がございますので、
近々労基署にお越しいただけないでしょうか」という内容だった。

「有難うございます。良かったです。先日、(別部署の方)から
追加で証拠書類を出して欲しいと依頼されておりましたので、
次週、併せてお持ち致します。」と応対した。

長かった。本当に長かった。
最初の会社の新卒採用内定を待っていた時のような、
釈然としない日々がやっと終わった。

鬱は治っていないし、私もおそ松状態なので、
全てが安泰に向いたわけではないが、
国から保障が受けられる事が決まっただけでも、
前向きになる大きなきっかけと支えになった。

勿論、保険を徒に長く受け続けて
ニート満喫!強制労働反対!なんてボゥエな考えは毛頭無い(笑)。
(妹が重度の松ファンになった影響で、この後、私はおそ松2期を網羅する事に…)

しかし、これは束の間の安息に過ぎなかった。


  第23章:場外乱闘)

労災認定が下り、
・療養補償
(労災によって被った病気・怪我の医療費全額(書類記入の手数料を除く))

・休業補償
(退職以降のニート期間中も、在職当時の給料の約80%が、
治癒・症状固定(これ以上治らない)と看做されるまで無期で支給されるもの。
ここが有期である「失業保険」と大きく違う。)

の2つの補償を受けられる事が確定したが、直ぐに貰える訳ではなかった。
(労災補償の詳細については長くなるので割愛する。)

休業補償については、会社の経理処理があまりに杜撰だった為、
労基署が支給金額を決めるのに必須である数値:平均賃金
労基署も会社も計算できずに途方に暮れていた、という問題があった(詳細は次章)。

療養補償についても「医療費の自己負担割合」にまつわる障壁があった。
私達が病院や薬局の窓口で実際に支払っているのは、かかった医療費のうちの3割だけである。
残りの7割は、協会健保とかの社会保険(会社員の場合)や国民健保が支払ってくれている

「仕事の高所作業でスペランカーの如く転落した」等、あからさまに労災と言えるケースならば、
医療費は3割負担ではなく一旦全額負担で立て替え
労災認定後に労基署から同額の補償金をすぐ補填してもらうという流れになる。

しかし、私の場合、怪我ではなく精神疾患であり、
労災認定される確率も30%程度と非常に微妙な数値だった。
労災が却下される事も想定して、退職後も国民健保で3割負担にしていた
また、労災の事を考えていなかった在職当時も、
協会健保の青いカードを使って3割負担
にしていた。

先述した通り、労災の療養補償は「全額支給」である。
医療費を3割しか負担していない私に10割の医療費を支給したら、
私が超絶メシウマになってしまう。

例えば、「1万円のモノを買ってきて」と、おつかいを頼まれ、
Aさんが3000円、Bさんが7000円払ったのに、
Aさんへお駄賃として1万円あげたらおかしな話になってしまう。

その為、療養補償を受ける為には、
過去、協会健保や国民健保が自分の代わりに立て替えてくれていた、
残り7割の医療費を、協会健保や国民健保に返金しなければならない
(つまり、医療費全額を一旦自腹で立て替えてから、同額の療養補償が支給されるという流れになる)

そこで「ならば、何円払わなきゃいけないの?」という問題が出てくる。
協会健保の場合は、管轄の支部に電話するなり出向くなりして事情を説明すれば、
2~3日で請求額の明細(レセプト)と払い込み用紙が送られてくる。
国民健保の場合は自治体の役所で同様に事情を説明すればよい。

前職は東京都江東区の会社&私は当時江東区在住だったので、
在職当時に協会健保が立て替えてくれていた7割分の医療費⇒協会健保東京支部
退職後に国民健保が立て替えてくれていた7割分の医療費⇒江東区役所
に問い合わせる必要があった。

協会健保 については、IIDX行脚のついでに中野の事務所に直接出向いて事情説明した所、
請求書が届くまでに3日(即日納付)、領収書が返送されてくるのに1週間とかからなかった。

しかし、問題は江東区役所の方だった。

労災認定から週が明けた10月9日、通院ついでに区役所に一連の事情を説明したのだが、
ふんぞり返って話を聞いていた、私と同じ位の年齢の男性担当者が
「それは国民健保辞めないと出せません」と国民健保の資格喪失手続を案内してきた。

(ちょっと待て、おかしいぞ?)と感じたので、
「私に無保険になれって事ですか?それは国民皆保険制度に反しますよね?
それに、もし私が労災案件以外で病気や怪我をしたらどうするんですか?」
と反駁した所、奥に下がってしまった。

暫くして、この職員は恰幅の良い別の職員を連れてきた。上司だろう。
この上司と思しき男性から「1ヶ月ほどかかりますが、そのうち届きます」と言われた。
「国民健保を辞めろって話はどうなんですか?」と聞き返した所、
「私の勘違いだったので気にしないでください」と、本人から軽く返された。
(あんたに聞いてるんじゃないんだけどな…)と思いつつも、
「じゃあ”11月中旬=11月20日まで”にはレセプトが自動で届くという認識でよろしいんですね?」と確認し、
非常に後味の悪い思いをしながら区役所を出たのだった。

過去にも、別の部署で事務の不手際(書類不足など)を何度かやられた事もあり、
「大丈夫かこの自治体?」とは正直思っていたのだが。

区役所の案内を信じて1ヶ月待った。しかし、11月20日を過ぎても家のポストはスッカラカンだった。
嫌な予感がしたので再び区役所へ出向いて確認。
今度はHと名乗る、初老の職員が「この件は私が担当しています」と出てきた。
「先月、11月20日までにレセプトが自動で私の自宅に発送されると聞きましたが?」と確認した所、
「まだ処理が成されていなかったので、11月末までには届く」という旨の返答を得た。

しかし、12月1日になってもポストは空。
再度区役所に出向き、職員Hを呼び出して確認したら「まだやっていない」との事。
(ちょっと待ってくれ、話が違うだろ)と思ったが、怒る気力は当時まだ戻っていなかったので、
「じゃいつ届くんですか?」と聞き直したら「12月4日には届く」と言われた。

しかし、12月5日になってもポストは空。
流石に頭に来た私は、「区長への手紙」=パブリックコメントという形で、
一連の経緯を労災の申立書と同じ要領で文書にまとめ、
同日、江東区役所の広報課に直接叩き付けた。

「職員Hは嘘を吐いてますよね?この人じゃ話にならないので、
彼の直属上長と話をさせてもらうか、一本連絡入れてもらえませんか?」と確認した所、
「区長・関係部署に共有した上で、職員Hの上長から連絡させます。」と
広報課の責任者に言われた。

それから1時間後。帰宅直後に着信が入った。電話の相手は職員Hだった。
「広報課から苦情の話を伺いました。大変申し訳ございません。」と平謝り。
何に対する謝罪なのかが見えなかった事や、上司から連絡を入れるという約束を反故にされた事で
珍しく私も、星のカービィ2のデデデ大王の如く怒りモード発動。
どうやら、上司は外回りで不在だった為だそうだが。

電話の口調から、事の重大さを自覚していないと思われたので、
電話越しに「どういう事だいい加減にしろ」と職員Hを罵倒する形を取った。

何か震えた小声が聞こえたので、多少は効果があったのかもしれない。
しかし、アサーションを諦めて、アグレッシブな手段に出る事は私自身心底不本意だった。
場合によっては脅迫にもなりうるが、相手も「公務員が一般市民に
嘘を吐いて信用を失墜させている」=地方公務員法第33条違反なわけだし(多分)。

「今日中に対応しますので、明日には郵送…」と職員Hは震えた声で続けたので、
「あなたに”対応”・”郵送”と言われても信用できません。
お手数ですが、上司同伴でレセプトを直接持参及び謝罪しに来るのが筋じゃないですか?」
と強く反論。

「分かりました。後日お持ちします。」とだけ返ってきたので、
「何を?どこに?何日?何時頃?誰と?ちゃんと答えてください。」と、
遠足前日の小学生に語りかけるが如く、5W1Hを立て続けに聞き返し、
「12月8日午前9時30分頃に、上司同伴で、私の自宅までレセプトを持参し、
一連の虚偽行為をしっかり謝ってもらう」という言質を取った。
「己の欲せ不る所…」と散々前職で「論語」を教えてきたが、相手がウソつきである以上止むを得なかった。

5W1Hを矢継ぎ早に問い、細かく明言させて言質を取る手法は、
かつて自分がクラッシャー副マネージャーIから受けてきた、「根掘り葉掘り聞く」パワハラを参考にした。
それに組み合わせる形で、自分が小学生や発達障がいの子を相手にする時用いていた、
5W1Hを明確にした質問を投げかけるという手法を取った。
こんな形で前職のブラックな経験を活かす事になるとは思わなかった(汗)。

翌日9時15分頃、職員Hと、上司と名乗る幹部M
(10月に私が区役所に行った際に応対した、恰幅の良い男性職員だった)の2名が自宅に来た。
冒頭「この度は申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げられたが、
何に対して申し訳ないと頭を下げたのか理解できなかった+ハシビロコウの方が余程丁寧に頭下げるわと感じた以上、
その謝罪を鵜呑みの如く受け入れる事はできなかった。

謝罪を受け、私は経緯の確認をした。
職員Hはウソつきである以上、幹部Mに対して、自分の過失を正しく報告していない可能性が濃厚だったからだ。
前職でも、クレーム対応時に、クレームを起こした本人が虚偽報告をしていた事で、
事態が悪化したケースを幾度と見てきた。

また、前職のクレーム対応のマニュアル(14条あり、全部暗記しなければならなかった)に、
・被害者・加害者双方が経緯の共通認識があるか確認する事
・謝る方は、何に対して謝るのかはっきり言及する事
・起こした事によって相手が覚えた不快感に対し謝罪する事が最優先

という旨が記載されており、会社や上司に対する恨みはさておき、これらの内容には同意し、
実際に14年当時のクレーム対応で多用していた。

案の定、私が一連の経緯を話し切ると、幹部Mは絶句した様子で黙ってしまった。
「あなた責任者ですよね?何で経緯を共有して黙るんですか?
全て把握されていらっしゃるんじゃないんですか?」と
間髪入れずに問いただしたが、「…今後、事務処理の迅速化に全力を尽くします」と、
安倍総理の「おはよう」や与野党の記者会見の如き破綻返答ではぐらかされた。

黙ったという事は、やはり当該職員Hや広報課からきちんと経緯が報告・共有されていなかったのだろう。
もうこいつらと話しても無駄だと判断した私は、長らく要求していたレセプトを受け取り、
「Hさんの言っている事は信用できないので、領収書を送る際はMさんから必ず一報入れてください。
Hさんにつきましては、御宅の就業規則や地方公務員法に基づいて
厳正に処分・処罰なりしていただければと存じます。
国会議員のようにお咎めなしだけは無きようお願いします。
本日は寒い中御足労いただきまして有難うございました」と
不機嫌に返答し、2名をさっさと区役所へ帰した。

腹の虫が収まった昼頃、国民健保にも医療費を返金振込した。
その1週間後、領収書が区役所から送られてきたが、その旨の連絡は無かった。
また話が違うが、モノさえ手元に来ればもうそれでいいやと諦めた。

この江東区役所の一連の不祥事により、
医療保険の返金手続及び労基署への療養補償請求申請に丸々2ヶ月を要し、
請求書類を労基署に受理してもらったのはクリスマス直前になってしまった。

その間、贅沢せずなるべく切り詰めて生活していたが、
それでも私の預金はみるみる目減りしていき、
そろそろ底が見えてくる位の残金(7桁=100万円を割った)となった。

クリスマスプレゼントか、お年玉かと思いつつ、2017年が終わった。
(社会復帰したらまた引っ越す。地元だけどこんな自治体の区に二度と戻ってくるか…!!)という憎悪と共に。

余談になるが、この23章を執筆していた2018年10月3日、
世田谷区役所がフリーランスの漫画家への杜撰な対応をした事が
被害者のTwitterで告発された事で大炎上し、世田谷区長がTwitterで謝罪する騒ぎが起きた。
どこの自治体・役所もそういう「税金泥棒なダメ公務員の役所仕事」ばかりなのかもしれぬと
つくづく思って辟易してしまう。

【おことわり】
本章で曝露した、江東区役所の不祥事の件ですが、
パブリックコメントとして山崎区長へ伝達済(と信じたい) である事、
当事者達から直接謝罪された事により、腑には落ちていませんが
2017年12月8日を以って決着しております。

つきましては、気持ちは分かりますが、江東区役所や関連サイト・SNSアカウント等への
誹謗中傷・クソリプ等の行き過ぎた迷惑行為はお控えいただきますようお願い申し上げます。
…彼らも彼らなりに忙しいだろうから(汗)。


第24章:徒然なる道連れ)
 
ひと悶着あった年末が終わり、年が明けた。
年明け早々、夜中2時に震度4の地震に見舞われたのは、
2018年が天災だらけの1年になる事を示唆していたのかもしれない。
(ちなみに、地震発生時、私はお手洗いで踏ん張っていたのだが、揺れに驚いて切れ痔になった)

鏡開きが終わり、装飾が全て撤去され、万事が元通りに再開するこの時期は、
何となく虚無感に襲われるものだ。
労基署から「支給決定通知」は届いたが、療養補償のみであり、
休業補償は支給決定通知が届かなかった。
(これらは労基署から別々に送付される)

「う~ん?やはり時間がかかるのか?認定まで半年かかったからなぁ。気長に待つしかないか…」と
何とか正気を保とうとはしていたが、生きている以上仕方なく場所と金を取る事に変わりは無い。

療養補償は「従来自分が立て替えてきた医療費を相殺する」ものであり、
1年分の医療費といえど、精々30万円程度である。
新年度の年金等でそのまま消えてしまう。

当時の残高と支出の見通し(新年度の納税関係・毎月の家賃・水道光熱費・食費等)を計算していくと、
このまま休業補償の支給が遅れ続ければ、春(4月)には破産してしまう事が確定した。

労基署側で何かまた問題が起きているのか?
急かしたくは無いのだが、進捗を確認する事くらいはしてもいいだろうと考え、
17年10~12月分の療養・休業補償請求もしたかったので、
1月下旬に再び労基署へ足を運んだ。
(先述の通り、16年9月~17年9月分(通院の開始~労災認定まで)の労災請求は、
17年のクリスマス前に出していたが、18年1月時点ではまだ給付されていなかった)


「年末に請求した、休業補償の方はどうなってますかね~?」と労基署の担当者に聞いた所、
「会社側の賃金計算や資料管理が余りに杜撰で、
我々(労基署)が労災給付額を計算するのに用いる「平均賃金」が計算出来ないので、
処理が滞ってしまっている、申し訳ない」という旨の返答を受けた。
つまり、21章の「残業時間が計算出来ない」という話がここでも絡んでいたのだ。

「それって、昨年9月末の労災認定前にも同じ話を
監督課(詳細は厚労省HPへ)からおうかがいしてましたが、
よもやあれから進展が無いって事ですか?」と聞き返した所、
「そうなんです。当時(17年10月)にFTさんに追加提出していただいた証拠資料に基づいて、
会社側に確認の問い合わせと回答の督促を何度もしているのですが、
相変わらず音沙汰無しで…」との事だった。
「そうなんですか…。実はそろそろ経済的に逼迫してきているので、
早めに御対応いただけると有難いのですが、労基署に言ってもしょうがないですよね…(苦笑)。
毎日数回電話する位のしつこさで進捗確認しないと、
あの会社の幹部達は社会をナメてますので動きませんからね…。」
とやんわりと労基署を催促して帰ってきたのだった。

このまま会社と共に道連れにされて犬死するのだけは勘弁だ…と思いつつも、
貯金残高という余命宣告が現実を突きつけ、私は何も出来ないもどかしさと経済的な不安感から、
アラサーの終わりを目前にして再び精神的に不安定になっていった。

補足:労災保険給付の請求期間は任意である。
(万一、請求期間が重複しても、労基署側で把握・調整してくれる)
2ヶ月おきに請求してもいいし、半年おきに請求しても良いが、
請求する度に書類記入(病院記入箇所)の手数料(数千円)が自腹負担になるので、あまり頻繁過ぎても良くない。
医療事務関係の計算を要する、面倒な記入箇所が多いので、
患者が増え続けて超満員な精神科・心療内科にとっても負担になるし(汗)。
私の場合は特に理由は無いが、四半期=3ヶ月おきに請求する事にした。

補足2:ただし「療養・休業補償の請求権は2年で失効する」と決まっているので、
前回請求から2年以内に再請求しないと「請求がずっと無いって事は
治ったんでしょ?」と看做され失効してしまう。
(時効が5年の給付項目もあるが、私には無関係な話なので割愛)

補足3:保険給付請求の書類と同時に、請求期間内に病院から貰った領収書(原本)も
証拠として全て提出しなければならない。(保管が必要なら、労基署でコピーしてくれる)
また、病院の書類記入に伴う手数料については労災対象外(自腹)なので、
その旨を、「様式7・8号を病院に記入してもらった際の手数料」といった文面で
領収書の該当箇所に手書きで追記しておくと、「労基署としては有難い」との事。
証拠書類にマーカー・手書きで本人が追記するのは問題ない。


 最終章:桜花の謳歌)

2月から3月に掛けては、生活を更に切り詰め、贅沢や行楽をこれまで以上に控える事で、
出来得る限りの延命措置を図っていた。
同時に、就労移行支援施設の存在を「おそ松さん2期」を通して知った事で、
施設への入所や経済的な支援策が他に無いかちょくちょく相談していた。
その裏で拙作「Final 19」をリメイクしていたわけで

しかし、精神状況は離職前と同じ位まで落ちてしまっていた。
誕生日翌日に、「いつまでもプー太郎やるなこの社会のお荷物め」と一方的に主張する親と
殴り合い寸前の親子喧嘩に発展し、防護創として腕に裂傷を負った。
この歳にして、親から暴力を振るわれて怪我を負った事が、怪我の痛みや出血以上に辛かった。

更に、2018年が家の賃貸契約更新年になっている=契約更新料で30万円近く
飛んでいく事を完全に失念しており、
経済面の逼迫に拍車がかかった=余命が更に縮んだ事で、
ど・ど・ど・どうしようと取り乱すようになった(冗談抜きで)。
(精神障害特有の症状だが、思考が堂々巡りをしてまとまらなくなる事を「ぐるぐる思考」と言う)

「休業補償支給は結局出ないのではないか?」
「私はこのまま飢えで孤独死して、大型連休明けにニュースで
孤独死事件として報道されるのだろう」
「労災申請なんてせず、鬱を圧してでも昨年の間に求職活動をしていた方が良かったのか?」
といった根拠の無い決め付けで、再び自分で自分を精神的に追い込んでしまっていた。

労基署へ進捗確認と催促を繰り返せばよかったのかもしれないが、
精神的に落ち込んでしまった事で、行動意欲が大幅に落ちてしまっていた。
鬱は再発率が非常に高い病である。

こうして、また4月1日になった。
改竄・隠蔽で揺れる財務省・防衛省の慌てぶりや、
大手企業の入社式、毎年恒例の「ユニーク入社式」が世間で報道されていた。

*私の懸念通り、4年前に辞めた(詳細は別ページ)某自転車メーカーも、
今年も入社式がNHK等で報道された。
(二宮君じゃないけどご愁傷様だな…)と思いつつ、
私は当時の同期に「あれ?社長代わったの?」とLINEを送っていた。


相変わらずニートの私に届いた新年度の知らせは、
「あけおめ ことよろ 年金払えや」という請求書だった。

当時、SAY企画の個人情報横流し事件等、年金関係の不祥事が相次いでいたので、
正直払いたくなかったのだが、仕方なく30万円弱をATMのペイジーで納付。
貯金残高はもう雀の涙、破産目前だった。

4月4日、労基署へ「1~3月分の保険金請求」を申請しに行くついでに、
「お恥ずかしい話なんですが、もう経済的に限界です。
今月で破産してしまうのですが何とかなりませんか?」と陳情した。
私が「限界」という言葉を極力使わないようにしているのだが
(詳細は拙作「What's Limit??及びPt.2」各ライナーノーツにて)、
ホントに限界だった。

必死さが伝わったのか、労基署からは「安心してください」と言われた。穿いてますよ(古い)
「大変長らくお待たせしてしまって本当に申し訳なかったのですが、平均賃金などの
必要な数値がやっと定まったので、
休業補償は4月9日午後に入金される予定です。」との事だった。

「良かったです。分かりました。9日にこちらでも記帳して確認します。」
「万一何かあったら直ぐ労基署まで御連絡ください」
とやり取りをして、労基署を後にした。

幾ら入るのだろう?労災の休業補償は「給料の約8割」である。
(厳密な定義・計算については厚労省公式解説へ)
前職の月給は手取りで20万弱。という事は大体16万円位か?
ならば、貯蓄に回せる余裕はほぼ無いが、何とか今の水準以上の生活は継続できる。

だが、平均賃金が自分の考えている以上に低く設定されていたとしたら…?
という不安が付きまとっていたので、まだ素直に喜ぶ事は出来なかった。

悶々としながら慎ましく数日を過ごし、愈々4月9日。
「入金は午後」と聞いていたので、15時過ぎに都営新宿線住吉駅前のみずほATMに通帳を差し込んだ。
独特な電気印字音が普段以上に聞こえたので、労基署からの入金があった事を確信した。
受験の合否通知に近しいような緊張感を伴い、通帳が返ってきた。
内容を確認して私は眼を疑った。「どっひゃ~」と。

通帳の入金欄には、これまで見た事も無い桁数の数字が記載されていた。
某鑑定団の如く桁を数えた。約300万円。

事情は分かってはいるが、宝くじのそこそこな等級にでも当選したのか?
みのもんたにDropout(途中棄権)でも申し出たのか?(古い)と
一瞬目を疑い、全身の力が抜けた。

しかし、金曜故に後には長蛇の列が出来ていたし、
愛車を歩道に路駐している事もあったので、(住吉駅周辺には月極以外の駐輪場が無い為)
とりあえずその場を離れて帰宅を急いだ。

家に帰ると、ポストには3枚の「支給決定通知」が届いていた。
これらの通知や通帳には「総額」しか記載されないので、
1ヶ月当たり・1日当たり何円なのか落ち着いて計算してみた。

しかし、ここでおかしな事に気が付いた。どう計算しても「給料の8割」にならないのである。
寧ろ「給料の120%程度」(=働いていた時よりも高い金額)になっていた。
これは誤算なのか?「働かざる者食うべからず」とも言うし…。

後日、労基署へ入金確認できた旨を報告し、支給金額について問い合わせた所、
会社側の賃金計算が甚だしい違法状態だった」という事が分かった。

給与明細は毎月1銭たりとも変化が無かった事、
(カレンダーの黒い日が24日であろうと22日あろうと、給与は毎月同額だった)
残業代や深夜割増とかも無かったわけだし。
まとめると、「本来算入すべき賃金を加えた結果、休業補償が在職当時の賃金を軽く上回った」という経緯で、
労基署の誤算ではない事が分かった。

経済的な不安が完全払拭され、就労移行支援施設の入所が決まった。
(施設のキャパシティの都合でかなり遠方になってしまったが…)
ここまで来るのに膨大な時間がかかったが、
社会復帰に向けて、やっとスタートラインに立てた。

色々あったが、多くの方々の支援・助言があったからこそ、ここまで生き延びる事が出来た。
その感謝心だけは、今後どんなに鬱が再発・悪化しても忘れてはならない。

葉桜の桜色と緑のコントラストが美しい。
そんな、日本人的感性に自分が関心を寄せたのは何年ぶりだろう。
柔らかな光を優しく受け止める横十間川を眼下に、
私は小名木川クローバー橋を自転車で駆け下りていった。

(今回の物語はこれでおしまい)


 あとがき

当初は「愚痴・事例共有」目的で始まった本ページだったが、
労災の経緯を詳しくまとめていた事で「証拠書類」として大幅改訂する事になった。
(実際、15章までの内容は個人名を伏せずに労基署に提出し、証拠として受理された)
「こうなったら一部始終全部書き残そう」と思い立ち、
労災申請~保険金の支給開始までの期間についても記載する事にした。

とはいえ、鬱による意欲減退がなかなか治らず、1年近く更新が滞ってしまった。
18年9月頃から容態もかなり改善し、就活に向けて愈々本格始動した事、
労災認定から丁度1年経過した事を受けて、
「節目・過去との決別」の意味も込めて一気に最後まで書き上げた。
(居るかどうかは分からないが、待っていた方には本当に申し訳なかった…)

さて、タイトルの「レイド化するサービス」についてだが、
前職が塾=サービス業だった事に起因しており、社会や会社に対して様々な皮肉を込めている。

「お客様は神様です」と昔から言われている一方、
「お客様は疫病神です」「モンスターカスタマー」「クレーマー」「モンスターペアレンツ」といった、
相反する言葉が時代と共に提唱されるようになってきた。

理不尽な悪質クレームを受け続け、「お客様」の言い成りになる。そんなの「サービス」と言うのか?
サービスという言葉は「奉仕」という意味があるようだが、その語源はラテン語の「奴隷」である。

余談だが、文中にも「ロボット」について言及した箇所があったが、
ロボットの語源もトルコ語の「強制労働」+チェコ語の「労働」である。
こんなの、サービスじゃなくて「隷奴」じゃないか。

「働き方改革」を叫びながらも、実際はモリ・カケの水掛論しか成されていない中、
長時間労働・人手不足は一層厳しさを増している。
長時間労働で磨り減った心身に「サービス精神」を要求するなんて、
「インフルエンザなのに徒競走を強いている」ようなものである。

こんな状態の病人にサービスをやらせたとしても、
覇気も語気も喪った、「ッシャイマセ」「アザーシタ」といった、
心のこもっていないサービスと化すのも想像に難くない筈だ。
温かみを込めたくても出来ない、「零度」なサービスを強いる事に意味はあるのか?

心身磨り減って何事にも冷めた平社員ばかりの会議場で
「サービスレベルナンバー1と全保護者・新規顧客に宣言しろ」と最高幹部が強制してきた所で、
イエスマンな幹部以外は誰も真に受けようとしない、め切った風
こんな組織に「感動」「日本を元気にしてあげる、私の可愛いお宝さん」なんて
高らかに謳う資格なんてあるのか?

全力を出したくても最早出せない人間を、
「個人のサービスレベル向上」という屁理屈で、1:複数で(言葉の)急襲に晒す。
ポケモンGOの「レイドバトル」でリアルにボコられる方がマシではないか?

ブラック企業を根絶する事、労基署の人員をより多く確保する事、労災補償を手厚くする事等、
様々な対策が講じられているのも事実だが、これらはあくまでも「対症療法」に過ぎない。

話が少し変わるが、2年以上通院している心療内科も、患者がみるみる増え続け、
冬場の小児科の如き混雑っぷりになり、椅子が不足するようになった。
みんな「ヘルプマーク」をつけているので、誰に席を譲ればよいのか分からない位だ。

私が通所している就労移行支援施設も、連日体験入所者が来ており、
拠点によっては常に満員で受入不能な所も少なくない。

また、今年7月6日に公表された厚労省資料やそれにまつわる報道によると、
「仕事が原因でうつ病などの精神障害を発症し、労災認定を受けた人は
前年度比8人増の506人と、過去最多を更新」
「1カ月平均の残業時間は、100時間以上が151人。うち160時間以上は49人だった」
引用:https://www.jiji.com/jc/article?k=2018070600447&g=eco
と、労働災害と精神疾患の関係は年々顕著になってきている。
(この506人、そして49人のうちの1名が私。ある意味激レアさんである(笑)。)

増え続ける患者を治す事も確かに重要である。
しかし、そもそも「患者にしない事=根本治療」の方が重要ではないだろうか。
何よりこの関心が今の日本には致命的に欠けているように感じる。

冬になったら「手洗いうがいをして風邪を予防しましょう」
「ただいま~のあと~は(以下略)」等と耳にタコが出来る位言われる。
では「~して鬱病を予防しましょう」なんて聞いた事があるだろうか。
実際、メンタルヘルスマネジメント検定とかユーキャンの心理系私設検定、
心理関係の国家資格に於いては出題されるが、その程度止まりである。

風邪を引いたら「おちゅーしゃでござる(古い)」とか
「冷えピタ貼って1週間位寝ろ」といった治療法が講じられるのは誰もが知っているだろう。
では「(集団)認知行動療法(CBTまたはCBGT)」「自律訓練法」等を
知っている人が果たしてどれだけ居るだろうか。

こうした認識不足は患者本人にも当てはまる。
「疲れているだけ」「やる気が欠如しているだけ」と、
病気であるという認識は1ミリも無く、がむしゃらに精神論へ走り続け、
病院に行かず悪化させてしまうケースも多い。

以上の考えから、セルフケア・ラインケア(職場としての精神衛生を
事業者が確保する事)双方に於いて、
もっと心の病について広く知って欲しいという目的も途中から追加した。
(文中で黄色で記載されている部分)

長くなったので鬱や労災、予防・治療といった話は他所で記載しようと思う。
最後に、とんでもなく長い「えげつない話」だったが、これを通じて、
「自分、心の病かも?病院行ってみようかな?」「こんな会社にはしたくない」等、
何かしらの意識・認識変革が生じたならば幸甚である。
ここまで読んでいただいた事に感謝しつつ結ぶ事にする。

2018年10月8日 FT 718/sd5y