17.4.6 乗らない馬鹿は唯の莫迦

過去ログに散在していた、1社目の退職経緯を整理する。

私は大学院を卒業し、新卒で某自転車メーカーに採用された。
入社当初はまあまあホワイトな会社だったが、
(導入研修はブラックそのものだったw)
業績悪化を契機に、一気にブラック企業へ成り果ててしまい、
2年で退職してしまった。その理由を整理してみる。
…若気の至りも多分にあるんだけど。

1:成長の見込めない環境
私は(エセ)理系なので、技術部署に配属されたのだが、
「失敗して覚えるもんだから」と直属の上司が専門知識を殆ど教えてくれなかった。
というか、厳密には多忙すぎて教える余裕が無かったのだ。

そのうち、私は社歴2年目に突入する直前に、
電動アシスト自転車の開発主任に抜擢された。
しかし、管理人プロフィールに書いてあるように、
私は機械工学で修士号をとった人間なので、
電気工学や情報工学(プログラミング)については専門外だった。
それに、社内にそうした専門家はおらず、全て自分で勉強するしかなかった。

制御・電気工学では良く聞くワードなのかもしれんが、
dutyって何?とか、ホントそういう状態だった。
(英単語そのものの意味は知ってたけど)

「じゃあどうやって製造してたんだよ」というツッコミが来ると思うが、
実はこの会社、構想・仕様までは社内で決めて、
設計/CFD解析・プログラミング・生産は全てアウトソーシングだった。
簡単に言えば、「うちでこんな自転車を
売りたいんだけど作ってくんね?」と一任していた。
いわば、のび太とドラえもんのような、所望すればモノが出てくる関係だ。

うちらは、アウトソース先が具現化して日本に輸出してきた「モノ」に対して、
JIS規格にそぐうものかどうか検査したり、
ああでもない、こうでもないとケチをつけたりするだけの存在だった。

故に、JIS規格や粗探しの知識だけは累積していったが、
肝心の開発にまつわる知識はいつまで経っても溜まらなかった。
結局社歴とスキルが比例せぬままに、
過大な課題を投げられてしまったわけである。

自分でもこれじゃアカンと思って、何とか抗おうと努力はしたが、
後述する理由で精神的に追い込まれてしまい、
もう厭…となってしまったのだ。

2:リコール隠し強要
2012年にこの会社が製造した電動アシスト自転車の
アシストプログラムに不具合があった事が、
全国のお店やユーザーからのクレームで発覚。

このクレーム処理に会社が本格着手したのが、丁度2013年の4月初頭だった。
クレーム対応の裏で、私は「スッキリ!」に出演していた(1秒足らずだけど)。

私は「お客様窓口」ではなかったのだが、技術部署だった為、
あの報道以降、謝罪やプログラムの書き換え等で、
東〜北日本地方のクレーム先を転々とする日々を過ごした。
(ヤケになって、上司とB級グルメを楽しんだが)

お店から「どういう事なんだ」「納得できない」「要は自走じゃないの?」
「お宅らの自転車はもう扱わないから」と怒られる事も屡々だった。

その不具合とは「何らかの条件が整うと自走してしまう」というものだった。
(一時期、自走現象については報道もあったが、あれらは別メーカー)
JIS規格を見れば分かるが、即リコールを届け出なければならない事象だ。

幸い、この自走現象でケガ人は出なかったが、
もしも被害が出たら、NITEから後ろ指を差され「悪事千里を走る」になる。
そうなったら、中小企業には一撃必殺モノのダメージになる。
国にバレたら会社は間違いなく潰れる。

そこで、会社の上層部は
「「自走」というワードは伏せろ。「アシストがかかり過ぎる不良だ」と
クレーム先に伝えてお茶を濁せ。」という旨の
業務命令を、現場の私達に下ろしてきた。

工業大学ならどこでも必修の「技術者倫理」で聞いた、
「技術者の帽子を脱いで、経営者の帽子をかぶりたまえ」
というワードが何度も脳裏を過り、良心の呵責に押し潰されそうだった。

顧客を騙し続けるブラック企業に未来なんて期待できない。
ビジネスには時に嘘が必要だが、
生死に関わる事に蓋をするのはどうしても許せなかった。

時同じくして、隣の先輩社員は、
昼休みに「リクナビNEXT」を毎日チェックしていた(笑)。

3:クレーム対応&現場対応による超過勤務

この電動アシスト自走問題で、
商品を卸したお店、買っちゃったお客さんの元へ飛び回ることで、
残業時間はどんどん増えていった。
朝7時に会社を出て、帰ってくるのは夜だった。
それから残務処理をするのだから、家に帰るのは夜半前後である。

更に、クレーム対応に加え、原因究明の為に
このアシストプログラムを書いた、
プログラマー張本人を海外から呼び寄せて
土日返上で検査や試走を繰り返した。
(彼は台湾人だったが、英語が通じたので助かった)

勿論、こんな炎上状態で代休やGWなんて取れるわけも無く、
物理的・心理的にどんどん追い詰められていった。

4:人材不足・業績悪化への対応に伴うキャパオーバー

2013年6月頃だったか。上記のクレーム対応は一応収束した。
結局、NITEや経産省にもバレず、それ以上の大事には至らなかった。
(内部告発も考えたんだけどね…)

同時期に、業績悪化で徐々に会社が火の車状態になっていることを受け、
「経営改革委員会」と銘打った、特命プロジェクトが発足した。
全部署のムダを徹底的に暴き、その改善と進捗報告、
フィードバック(という名の吊るし上げ)を協議するプロジェクトだった。

委員は社歴を問わず、社内から抜擢された人物が努める事になった。
私は、一連のクレームへの精力的対応や、
数多くの改善提案が上層部に評価されたのか、委員に抜擢された。

抜擢された事自体は誇らしく思えたのだが、
それでこそ、若手が次々退職して人材不足になり、
(実際、3年離職率も高かった)
本来の業務でない事までどんどん回ってくるようになっている中、
更に別の業務が回ってくるとなると、最早キャパオーバーだった。

この委員会は、週5で朝9:00〜12:00の
3時間をかけて会議するという体制だったので、
私は午前中は本来の業務に手を付けられない。
結局、午前で片付けるべき仕事は終業後に残業という形で処理せざるを得なかった。

次から次へと本来業務の納期が迫る中、違う仕事がどんどん舞い込んでしまい、
「本来の仕事をさせてくれ」と色々と見失ってしまった。

5:罵声の飛び交うブラック環境
元々体育会系の社員が多かった(実際、日体大出身者も多かった)のもあるが、
毎日どこかで罵声・暴言や喧嘩が飛び交うような社内環境だった。
聞いていて気分も良くないし、そもそもうるさかったし。
私も新人だった頃は「死ね」「帰れ」と言われるような、
パワハラ・モラハラはザラだった。

6:上司が自転車に乗れない
私の所属していた部署を統括する開発責任者が、何と「自転車に乗れない」のだ。
酒造メーカーに就職して「実は酒飲めません」というようなものだ。

そんな人から「ブランドの価値って何だ?」と問われた所で、説得力も人望もない。
2013年の9月頃にこの議論を巡って、この上司と大喧嘩し、
「もう出てったるわこんな会社」と思ったのも理由の一つである。

7:利益偏重のブランド破壊
私がこの会社を第一志望と決めたのは、2011年2月=東日本大震災直前、
関東でも稀な大雪が降った後の事だった。
決め手となったのは、この会社の当時の
若手(今35歳くらいの世代)が立ち上げた、新ブランドの
コンセプトに心底賛同したからだった。
(プライバシーの都合上、名前は伏せる)

しかし、事情は2013年に大きく変わった。
ブランドを総括する開発責任者が変わったのだ。
先述したように、この時期は会社の経営も大きく傾いてきた時期だった。

ブランドメッセージは市場には受け入れられてきたけれど、
目ぼしい利益には繋がっていなかった。
そりゃ、ブランドが利益に繋がるまでには、
「余程の幸運」「超綿密な仕組みの構築」でも無い限り、
十年近いスパンでの告知活動が必要だ。

会社の上層部はそれが分かっていなかった。
赤字状態に陥っていた、当時の会社の状況は利益確保が最優先課題だった。
会社の上層部はブランドメッセージを撤廃し、ブランドの方向を大きく転換。

ブランド立ち上げ当初(2009年頃)は、
「ママチャリとスポーツサイクルの合いの子」的な自転車を
作るんだ!という方向性だった。

その当時、「ポタリング」という概念が日本でまだ
そんなに普及していなかった時代だ。
それ故、市場にも「面白いね!」とポジティブに受け入れられていたが、
ブランド認知活動が足りなかった結果、
同業他社も同様の方向性のモデルを投入してきた事で、市場開拓に後れを取ってしまった。
それでも、カラーリングやデザインで他とは一線を画し続けており、
「ニッチなニーズ」には応え続けていた。

見限ったのだろうか、会社の上層部は、
「メードインジャパンのスポーツ自転車ブランド」と、
スポーツに特化したモデルに方針を転換してしまったのだ。
だが、厳密にはMade in Chinaである。
(検査とかは日本基準をクリアしているので、
品質は「大丈夫、絶対大丈夫だよ」と言える)

簡単に言えば、「弱虫ペダル」に出てくるような
自転車ばかりを作るブランドに変わってしまったのだ。

方針転換をして以降、生産するモデルは、
・フルカーボンフレーム
・シマノのDURA-ACEかアルテグラといった上級コンポしか使わない
・日本一軽い(当時)アルミ自転車
など、ポタリングどころか、最早レーシング重視のラインナップへと変わっていった。
車で言えば、一介の問屋がいきなりNUSCARに参入したようなものだった。

出展するイベントも、ロングライドイベントから、
レースや競輪関係のイベントに偏重していき、
ド素人だった私も、スタッフ不足の関係で、
売価60万円近いモンスターマシンと共にレースへ投入された事もあった。
教習車しか運転した事のない人間が、ランボルギーニを運転するようなものだった(笑)。

こうした方針転換に着いていけなくなったのもあるが、
イベント出展が、CSRではなく、現場の物販による利益確保が
主目的だったのも個人的に納得できなかった。
気持ちは分からないでもないが、会社の上層部は、
ブランドを根付かせる事を止め、目先の一時的な儲けしか見ていなかった。

それに、新しく就任したブランドマネージャーは、
ブランドを立ち上げた若手社員やデザイナーを
悉く別部署に追いやるor退職に追い込んで、抵抗勢力を徹底排斥。
産休明けの女性社員すら速攻で閑職へ追いやった位だった。
そして、周囲に自分の「イエスマン」しか置かない人事体制=独裁政権を構築した。
また、彼自身も社長の「イエスマン」だったので、
社長の突発的な思いつきも下っ端が全て対応する事になったのだった。

こうした、上層部の止められない暴走が始まり、
ブランドがどんどん歪曲・空回りしていった結果、
市場からは「和製ルイガノ」「ビアンキの劣化コピー」等と揶揄されるようになった。

その理由は至ってシンプルだった。
どの社員も開発・生産したモデルに乗って試走すらもしないんだもん。
飲食店で「新メニューです。味見してないけどなww」と公言するようなものだ。
不本意に作らされた産物である以上、愛着なんて微塵も無いからだった。

以上のように、自分が着いていこう!と思ったブランドの
凋落ぶりに酷く落胆したこと、ブラックで成長の見込めない職場環境など、
会社に対する期待・従属精神(エンゲージメント)が無くなった事で、
2014年3月で退職したのだった。(ちなみに有給も消化しきれなかった)

当時は縋る思いで、成長の見込めそうだった、大学のバイト先である塾業へ転職したが、
それもブラック企業物語2になったどころか、重い鬱に侵される結果になってしまった。
こうやって、ブラック企業を転々としているのは、私自身が無知で甘過ぎたと反省している。